教育福島0025号(1977年(S52)10月)-029page

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教育随想

 

N君とのふれあい

 

小林初江

 

れ下がり、川風が部屋中を吹き抜けるひなびた幼稚園に勤めたことがあります。

 

もう六年も前になりますが、薄暗い部屋に、はだか電球がたれ下がり、川風が部屋中を吹き抜けるひなびた幼稚園に勤めたことがあります。

遊具も少なく園庭も狭いので、晴れた日にはもっぱら山神様の境内で花を摘んだり、かけっこやボール遊びをしたり、お弁当を広げて食べたものです。

この幼稚園で私は四歳児を担当しました。落ち着きのないA男、友達から博士号をもらったK子、雨の日も風の日も二キロメートルもある道を通い続けたC子のことが昨日のことのように思い出されます。なかでもN児のことはとても印象に残っています。彼は容易に園になじめず、お母さんの腰にまつわりつき離れようとしませんでした。

つり橋のたもとに親子の姿が見えると、かけ足で迎えに行き、抱きかかえて連れて来たものです。お便所に行きたくなると、大事な所を押さえて私の前を行きつ戻りつ、急いで便所に連れて行き、そっと引き出してやると「シャー」と放尿し、終わると駆け出していく。

翌日から、スナップのはずし方、出し方、始末の仕方の繰り返しが一か月半も続きました。後でわかったことですが、家では便器が大きいので、庭や、赤ちゃん用おまるを入園当初まで使っていたそうです。

N児にはもう一つ心配の種がありました。それは話をしないことです。

お母さんも心配で相談所や病院にいかれたようです。園ではもちろん、点呼の時だけ「ハイ」と返事をしますが後は、にこにこしているばかりです。家庭にできるだけ多く話題の場を持つように協力を求め、活発な子供を近づけたり、近所の子供と同席させたり、世話好きな子にお手伝いをさせたり、絵本を読んであげたり、家庭の様子を話しかけたり、遊び相手を務めたり、いろいろ試みましたが、「キャッ」「キィー」と言う声ばかりでどうしてよいか困ってしまいました。二学期になって間もない粘土遊びの時です。いつの間にきたのかN児が私のそばに立っていました。

「N君どうしたの」と言う問いに、蚊のなくような声で「象」と指さしました。机の上には象が置いてありました。「N君上手ね。」と私は思わず抱き上げほほづつして喜びました。これを契機にほんの少しですがお話をするようになりました。私は自信を持ち、今までより、より多く接し、忍耐強くN児を理解するように努力しました。

 

楽しくゆとりある幼稚園教育をめざして

 

楽しくゆとりある幼稚園教育をめざして

 

また、地域の人々の温かい心に支えられた楽しい毎日でした。幼稚園新築が話題にあがり始めた昭和五十年に現在の湯本第一幼稚園に転勤して来ました。私にとっては、長い教師生活ですが、子供たちとの出会いは、一年または二年の短いものです。この短い出会いの中で一人一人の子供をどれだけ大事にしてこれただろうか。教育に真剣に取り組んでは来たが方向とやり方はこれで良かったのだろうか。

逐年幼児教育について社会の関心が深まり、教師自身がその専門性を自覚し、自らの研究と修養が強く要求される時代になっていると思います。

「真の幼児教育とは何か」との原点に立ちかえって、今までの教育のあり方に反省を加え、今後何をなすべきかという見通しを立て、段階的に、目的に向かって努力してまいる所存です。

「人間性豊かな。」「ゆとりのあるしかも充実した幼稚園生活。」「国民として必要とされる基礎的・基本的な内容の重視と個性や能力に応じた教育。」

ままごとに興じ、木登りをし、なだらかなスロープに響き渡る歓声。父母の願いに答えられるゆとりと夢を忘れない、温かい教師になりたいと思います。

(いわき市立湯本第一幼稚園教諭)

 

 

 


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