教育福島0026号(1977年(S52)11月)-020page

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教育随想

 

日の当たる定時制教育を

 

六角勲

 

六角勲

 

「おばんです」ではじまる夜間定時制の本校は、全日制高校の進学率の上昇に伴い、入学希望生徒数の減少からほぼ全入に近い現在、生徒の能力較差はますます激しくなってきている。

教科書が満足に読めない、分数の計算ができない生徒。しかし一方では、全日制でも相当の実力を発揮できる力を持ちながら、家庭の事情で働きながら定時制に通う生徒。年齢的にも四十歳から十五歳、職業・職種も千差万別。家庭環境も複雑、このような生徒の多様化、多層化の中で、どこにポイントを置いて教育すればよいのか、「学力のふるわない生徒」をどう救うか、「能力ある生徒」を更に、その才能を伸ばすためにはどうしたらよいか、こうした両極端の問題を同時にどう解決すべきかを迫られているのが定時制高校全般の現状である。

その上、現実の定時制は先細りの傾向にあり、教育のあらゆる面でのしわ寄せが定時制に集まっているといっても過言ではない。全日制が高校教育の表街道と考えられ、定時制はその裏街道とされる差別と偏見、それは高校野球の甲子園と神宮球場が一つのシンボルとしてあげられよう。

このため、定時制の生徒は全日制の生徒に対し、一種の敗北感、劣等感をもつ生徒が多い。これが勉強嫌いの生徒、基礎学力の低下と学習不適応を生みだしている。この脱落する生徒を救うためにも、学習指導上一人一人をたいせつにする個別指導が必要になってくる。

かくして、学力の低い生徒にも理解でき、優秀な生徒にも一応の満足感を与える「わかる授業」をどう展開するか。まさに定時制教師こそ教育のベテランでなければ勤まらないのである。詰め込み主義の教育では生徒はやる気をおこさない。自分の力で達成する喜び、参加する楽しさ、汗を流す体験にこそ生徒はやる気をおこすのである。「落ちこぼれ」でなく「落ちこぼし」であるという責任の自覚、「一人の生徒も脱落させない」という気迫と努力が必要となってくるのである。定時制教師は、いまミレーの描いた「落穂拾い」の中のあの農婦のように、ただ黙々と自分たちの手塩にかけた作物は、一粒の麦といえどもおろそかにしないという真しな姿で生徒に接しなくてはならない。

 

種々の条件をこえて勉学に励む生徒

 

種々の条件をこえて勉学に励む生徒

 

幸い定時制は生徒数の減少から、一人一人に手をさしのべる人間教育が可能であり、大学進学の予備校化や、テスト、テストで人間を点数で評価するといった教育のゆがみもない。むしろ定時制の生徒は働きながら、なおかつ向学心に燃えて、学業にクラブ活動に明るく熱心に取り組んでいる姿をみるとき、定時制こそ、今、失われつつある本当の教育が生きており、教育の原点が、ここにあるような気がするのである。

分数も教科書も満足に読めない生徒に思いきって小・中学校の教育から再教育し、学習する喜びを与えるとき、いかに生徒の目が輝いていることか。「先生、おれでも百点とれるんだなー」と驚きと喜びの声を上げるとき、どんな生徒にもよさはある。教育とは生徒の可能性へのちょう戦である。生徒の可能性を信じないところに教育は成り立たないということが実感としてつたわってくるものである。

私はこうした実感を直接肌で感ずる毎日を、この生徒たちと送ることによって、定時制教師の生きがいを見いだしていきたいと思う。そして、少しでも日の当たる定時制教育の実現することを望んでやまないのである。

(福島県立安積第二高等学校教諭)

 

 

 


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