教育福島0026号(1977年(S52)11月)-023page

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教育随想

 

日記指導に思う

 

佐藤量子

 

佐藤量子

 

「先生、きょうは五枚も書いてきたよ。」「先生、わたしのうちでね。…」子供たちは、教室に入るや次々に話しかけてくるのが朝のあいさつになっている。一人一人のことばをたいせつにして聞き入るには、とても時間的にゆとりがない。子供たちの小さな発見や発想は大事にしてやりたいし。

これを手助けしてくれたのが日記の継続である。書き始めは、生活の絵にたどたどしいことばや文をつけて満足そうに見せてくれた子供たちだったが、今は作文の学習経験とともに自分の生活を正しく認識し、位置づけることができるようになってきている。その子供なりの生々しい生活を表現し、個性がはっきりにじみ出ている日記に変わってきた。

 

<家庭通信>の中から−

子供たちの書いている日記の中から、また子供たちの成長の芽生えを見つけました。子供たちは、毎日の努力の積み重ねを思いがけないときに思いがけないところで表現します。

(六月二十七日、二年、A子)

--きょう、おにいさんたちがおもしろそうにキャッチポールをやっていました。ボールを上に上げるとくるくると回ります。つよいボールでもとれるんだもの、わたしもおそわってみたいな。おにいさんたちは、ボールをとるときもいろいろなうごきがあります。風のようなボールをいろいろなうごきでみんなとれてしまいます。そんな人は、なんでもむちゅうでやるからだんだんじょうずになっていきます。人間は、一回でできるんじゃなくて、何回もくりかえしてできていきます。-A子は、じっと見つめるボールの動きや人の動きから、人間としての価値を二年生ながらに大人以上のものを感じとっています。毎日の学習の中での深く見たり考えたりする訓練が身につき、いつの間にかものの見方、考え方が自分のものとなってきているのです。このような生活は、他の子供たちにもいえることです。子供って、ほんとうにすばらしいとお思いになりませんか。

 

日記を見ていると、子供と一対一になって話し合いをしているような気持ちになって、何か言ってやりたくなってしまう。いつも子供たちの日記のあと書きに、わたしは、考えをぶつけるようにして書く。日記を見終えて子供たちに返すと、子供たちは、席にかえるのももどかしそうに日記のあと書きの赤文字を読む。わたしは、その時がとても楽しい。それは、どの子もにこっとするからである。あと書きを夢中で読むのは、よく書く子も書かない子も同じである。一人一人に書いてやるあと書きは、しっかりと教師と子供を結びつけていくものを感ずる。日記の中に好ましくない考え方が出ているときは、率直に注意のことばをぶつけてやる。しっかりと身のまわりを見つめて書いてきたり、やさしい心持ちや行動をしたりしたことが書いてあったりすると、手放しで喜び、その気持ちを書いていく。心配していれば、心配をやわらげるように書く。

 

日記は子供の生活のバロメーター

 

日記は子供の生活のバロメーター

 

この日記指導の繰り返しは、過去十余年の継続で現在の学級にもかわりなく続いている。その間、問題児を救ったことは幾度かあっても、問題児を出したことがなかったことは、日記指導のおかげと、今あらためて胸にこみ上げてくるものを感ずるとともに、素直に明るく巣立っていった教え子の面々が目の前に浮かんでくる。子供の日記は、子供の生活のバロメーターのように思われ、生徒指導の重要な方法であることをつくづく考えるきょうこのごろである。

(下郷町立旭田小学校教諭)

 

 

 


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