教育福島0026号(1977年(S52)11月)-024page

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教育随想

 

校歌

 

辺見悦子

 

辺見悦子

 

校長室の壁に古ぶるしい一幅の細長い額がかかっている。年月とともに茶かっ色となり文字もさだかではないが達筆な草書で書かれている。これがわが西郷一中の誇る校歌である。「那須連峰をゆく雲に高き理想を仰ぐとき、真理と自由と平和のゆくてかたどる徽(き)章に旭日(あさひ)はひかる。意気高じ、我等ああ我等我等西郷第一中学生。」一番の歌詞である。昭和三十六年この西郷一中に赴任し、始めて耳にしたとき、親しみを感じ誰でも口ずさみたくなるようなよい曲だなあと思った。歌詞にも心ひかれるものがあった。音楽科を担当することになり早速楽譜をあけて見て驚いた。西條八十作詞、渡辺浦人作曲超一流の先生がたの作品であった。やはり違うと感嘆した。楽譜もハ長調四分の四拍子でごく単純な感じではあるが歌詞と曲がぴったりしているのはさすがである。ではなぜこの東北の片田舎の中学校にこのようなすばらしい校歌が誕生したのだろうかと疑問を抱き先生がたに尋ねたところ、当時教頭をしておられたS先生の力によるものだという。本校沿革史をひもといて見ると昭和二十二年五月十日学校発足熊倉小に併設。昭和二十五年七月四日新校舎落成校歌制定発表となっている。S先生の話によると、終戦後六・三制が施行され新制中学校が発足した。この西一中も熊倉小の一部を借りて創設され、やっと中学校の形をととのえたものの、まだ校歌がなかった。どうせ作るなら日本一の校歌を作ろうと話し合い、たまたま終戦まで作曲家の渡辺浦人先生がこの西郷村に疎開しておられS先生と交流があったということで、思いたったが吉日とばかり、大きなリュックに米を詰め込み上京し、西條先生のお宅に直接伺ったそうである。終戦後の混乱期とはいえ、一面識もないものが突然おとずれたところで当然おいかえされるのがおちであったろうが、渡辺先生のお力添えもあり、お会いすることができたという。先生の印象は、品格のそなわった老紳士であったとか。幸い心よくひきうけて下さったそうである。那須連峰に囲まれ阿武隈川を控えた学校周辺の様子をお話すると、先生はすぐにペンをとられすらすらと書き始めたそうである。次に渡辺先生のお宅で作曲にかかり、S先生もずっと同席し、逐一その状態を見ていたという。ピアノの前で詩を何回も口ずさみ、心の中にメロディーが浮かんでくると、ピアノをひきながら楽譜に書き入れていくといった形で一晩のうちに作曲したと聞いた。とにかくりっぱな校歌をみやげに意気揚々と帰校したS先生の喜びもひとしおだったろう。現在でも時々思い出されては話されている。「恩師の愛と友情の花もあかるき学舎(まなびや)に、みがくは智徳よ正しき精神、きたえし身体(からだ)に力はあぶる誇りあり、我等ああ我等我等西郷第一中学生。」二番の歌詞である。当時の校歌の発表会は晴れ晴れと誇らしく山々にこだましたことと思う。縁あって再び西一中に席をおくことになり、この校歌をきく機会にめぐまれた現在、生徒数は年々減少はしているが、西郷一中は校歌とともに建在である。交通の発達、テレビの普及等により生徒も都会化し、進学希望者も百パーセントに近い。校舎も鉄筋三階建てとなった。うつりかわりのはげしさに目をむくばかりである。「阿武隈川の清き水たゆまず海へそそぐごと発刺(はつらつ)伸びゆき我等の肩にかならずになわん未来の日本、いざ奮え我等ああ我等我等西郷第一中学生。」誇りをもって力強く歌う。と楽譜に記されている。この西郷一中が続く限り校歌も歌い続けられることだろう。

 

(西郷村立西郷第一中学校教諭)

 

校歌の心を育てる校舎

 

校歌の心を育てる校舎

 

 

 


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