教育福島0026号(1977年(S52)11月)-036page

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図書館コーナー

読書週間によせて

読書と公共図書館

 

一、読書と図書館

秋の行事は数多いが、その一つ「読書週間」が今年もやってきた。十月二十七日から十一月九日までの二週間がそれである。

ところで、読書と図書館に関する行事は、四月三十日の図書館記念日をはじめ、五月いっぱいを当てた図書館振興の月、そして五月五日を中心に前後の計二週間を持った子供の読書週間等々、近年とみにその数を増し、社会の中に定着してきたようである。

 

学習資料を提供する公共図書館

 

学習資料を提供する公共図書館

 

その背景には、生がい学習の必要性が強く叫ばれだした今日的状況ともあいまって、読書と図書館のそれに果たす役割の重要性が認識されてきたことにもよるであろう。

いうまでもなく、人がよりよく生きてゆくために学習は不可欠であるが、読書による学習は、だれでも、いつでも、どこでも可能な、数ある学習形態の中でも、もっとも自主性と融通性とに富んだものであろう。

ある社会教育関係者の「生がい教育の第一歩は、読書の意義を自覚させることである。それができれば、まさに私たちの目的の大半は達成されたものと考えられる。なぜなら、"読む"という自主的、能動的な意志の換起こそ、生がい教育の出発であり、すべてがそこから始まり、そこに帰着するものと思うからだ。」という意味の言葉があったが、当を得たものであろう。「読む」という行為は「学ぶ」ということの一つにすぎないが、もっとも重要な一環である。まずなによりも自覚的・自主的でなければならないし、受動的ではなく、能動的である。そしてその対象は無限に深い。最終点というものがない。個人的行為ではあるが、それは人類の文化の本質に合体しようとする。その意味で、個人が一個の人間として豊かになると同時に、人類社会を豊かにすることにもつながる。

ところで図書館とは、まさにこのような、人間の学ぼうとする意志を換起(読書普及活動などで)し、資料の提供場所とその機会(チャンス)の提供を通して、継続的、発展的にそれを保障していく社会的機関であるといえるだろう。

 

二、図書館は、住民の学習権を保障する社会的な機関である。

このような図書館の本質的役割も、今日ようやく社会の認識を得るようになった。それまでの図書館はといえば、住民の生活とかけ離れた次元で、学生・生徒の勉強部屋、あるいは、一部の特殊な住民だけが利用する施設としてのイメージしかなかったし、事実そのような役割しか果たしてこなかった。

だが、ここ十年、図書館は着実に住民の生活に根づき始めた。図書館は「生存権の文化的側面」を保障する機関である、というような論評もボチボチマスコミなどで口の端にのぼるようになってきた。たしかに、貸し出し冊数、登録人口の飛躍的な増大は、質の充実とあいまって、それを裏付けるに格好な材料を提供しようとしている。

また、住民の側からの、自発的な読書要求、図書館要求も強まってきた。「権利としての図書館」を求める声は本県においても、福島市における市民図書館設置の要望、郡山市の、その充実を願う声、いわき市勿来地区の文庫活動などにみられる。そしてそれらの声は例外なく、読書の意義について深い認識を持った人々が、「民間」において実際に文庫活動などの実践を行い貴重な体験にもとづいて提起された切実なものだけに、まことにその識見は高く重い。図書館が住民の学習権を保障する機関として真に機能するためにも、これらの声から多くのものを学ばねばならないと考えている。

 

三、 一冊の本から

「一冊の本から何かが始まる」。これが本年度「読書週間」の標語である。こんな句もある。

燈火親し詩の行間のゆたかなる

(長沢母子草)

先の社教関係者の発言といい、これらの言葉といい、その内蔵する意味は深い。

ともあれ、この秋の「読書週間」が真の「学ぶ」とは何かを考え、そのための読書の意義と図書館の果たす役割についての再認識の機会になれば…と思う。再び俳句をもってこの拙文を結ぶ。

既知未知の人生燈火親しけれ

(西島麦南)

 

 

 


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