教育福島0027号(1977年(S52)12月)-031page

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教育随想

 

道徳ということ

 

松永輝彦

 

松永輝彦

 

日本赤軍のハイジャック、未成年者を含む若者のいまわしい事件の数々に現代の風潮を憂える議論は多い。特に知識の過剰と、道徳の低下というアンバランスが指摘され、受験地獄対策、ゆとりある教育、道徳教育など、その必要性が叫ばれている。

さて道徳教育と一口に言うが、道徳とは?となると、私自身ばくぜんとしか考えていなかったことを反省している。

しつけがたいせつだという。あいさつ運動や、食事のマナー、紙くずを捨てないことを教えることもしつけである。私はこうしたことも道徳の一部だろうぐらいにばくぜんととらえ、それ以上にはあまり深く考えていなかったと思う。

われわれの道徳観念とは、なにが善であるかを見分け、それを実践することであろうか。そしてなによりもまずそれは人間的なことであり、物質的でも生物的でもない。さらに言えば、自由を制限する道徳律があるとすれば、それは真の道徳ではあり得ない。道徳は、自由と非常に密接に結ばれているといえると思う。自由のない奴隷が主人の命令で盗みをさせられた時、彼は責任は主人にあると言うことはできる。しかし人間である以上、その道徳的責任から逃れることはできない。服従という奴隷の立場では、真の道徳はあり得ない。

道徳について、さらに別の観点から考えてみたい。それは科学との関係においてである。高度な科学的発明は、人間が自然界の法則を高度に活用した科学の所産であるが、それを善い目的に使うか否かの決定は、いかに明晰(せき)な頭脳と知識をもってしてもできない。ここに科学の限界がある。それではなにがそれを決定するのか。それは正に道徳と深いかかわりをもつ、人間の中の別のものと思われる。そもそも、科学のような法則の観念は、道徳の観念と相容れないものもあろう。

右に述べたことからして、科学的思考とは別な分野に、道徳とのかかわりがあるとするならば、それは、文学、芸術、美術、音楽、詩、あるいは宗教的なことになるのではないか。これをいいかえれば、人間が美しいと感じるときの人間の感情の中に、道徳に通じるなにかがあるということだと思う。

私はここで、「考える」ということと「感じる」ということは、全くちがうものであることについて述べてみたい。英国のある哲学者が、次のように言っている。--「人間が、なにかあることをなすとき、それがやる価値があると感じないのに、やる価値があると考えてなしたことには、どこか間違ったところがある」--と。これを言いかえると、人間は頭で考えて行動すると間違いをおこす。もっと感情にしたがって行動せよ、ということになる。それではまるで逆ではないか、と異論を唱える人が多いであろう。なぜならば感情的とか、感情のままに行動するという場合、とかく悪い意味、軽薄にとられ、一方、理性的、思慮深いといえば、それはよい意味、頭のよい人にとられるのが、一般の通念だからである。

しかし私は思う。理性的なことが立派で、感情的なことが低くみられるのは、理性は知識の向上とあいまって、訓練されやすく、いわば大人になっているが、感情はその逆で、常に子供のままでいるからであって、理性は良く感情は悪いときめつけるのは誤りである。そして道徳も子供であることに、問題があるのである。

ここで、先に述べた科学の限界について考えてみる。善い目的に使うか否かを決定するのは、人間の中の別のものといったが、これこそ感情であり理性や知識ではないと思うのである。ところが、極めてまずいことに、感情はまだ子供の程度にしかなっていない。物事の善悪を判別する機能と役割をもっていながら、子供なだけに荷が重すぎ、ここに冒頭に述べたアンバランスが生じるのだと思う。

以上、道徳ということの中には、少なくとも、人間的であること、自由、感情、という問題が深くかかわっていると思われるが、いずれにせよ容易ならざることを、あらためて思い知らされる。年月をかけても、これに真剣に取り組み、感情や道徳のほうも大人にする努力をしなければ、われわれの問題は解決しない。

(原町市教育委員会委員長)

 

 

 


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