教育福島0028号(1978年(S53)01月)-020page

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教育随想

 

限りない可能性を求めて

 

渡部健次郎

 

朝から真夏の太陽がギラギラと照りつけ、今年も水の季節がやって来た。

 

朝から真夏の太陽がギラギラと照りつけ、今年も水の季節がやって来た。

子供たちにとってこれほど待ちこがれている学習はないのではないか。子供たちにとってはもちろん私にとっても、水泳大会という前年度の記録へのちょう戦が待っている。今年は、全体のレベルアップを目ざして、「より速く泳ぐ。」ことを合い言葉に、記録にちょう戦してみようということから出発した。

現在のクラスは、担任して二年目、泳げない子は極めて少ない。だが、能力差が大きいのでどのようにしたらよいかということである。そこで、グループ指導を通してやってみることにした。一グループを四人ずつにし、グループ同志のライバルもさることながらグループ内の個々のライバルも考えて編成した。

初めは、泳ぎの基本から練習に入ったのだが、興味もなく意気も上がらない。そこで、競争心を少しずつあおりながら進めると、意識が、しだいに変わってきた。「先生、何秒ですか。」「うんいいぞ!」「先生、もう一回見て。」こんな言葉が飛び交い、急いでスタート台に上る子供たち、お互いの泳ぎを見合ったり、「一二、一二。」とかけ声をかけたり、批評しながら記録をとったり少しでもよいタイムが出ると、別のグループに競争を申し込んだりして、実によく練習するようになった。もう、子供たちの態度は一変してきた。こうなってしまうと彼等の心には、練習させられるという意識はほとんどなく、休憩時間も惜しむように練習しては、「先生、タイム出たぞ。」と報告に来てまた水にもぐって行く。練習と競争、競争と練習をくり返し、勝ったり負けたりしているうちに、どうしても、自分の記録を伸ばすことができなくなり、あせりさえ見られるようになってきた。お互いの欠点を指摘し、よい点をほめ、助け、励まし合い、一秒、一秒に一喜一憂し、自分の能力の限界にちょう戦し、自分の可能性を求めて努力している姿が、言葉でなく、子供たちの行動に現われてきたのである。技術の向上にいどむのはもちろんであるが、からだは、鍛えようによっては、変わるものだということを実感として知ったようである。なぜなら、練習につぐ練習にもかかわらず、日がたつにつれて疲労も、呼吸も、さほど苦しいとは感じなくなっているからだ。距離を伸ばし、タイムを縮め、それでいて遊びに夢中になるのである。

 

練習と競争,競争と記録

 

練習と競争,競争と記録

 

技術の面では、子供とともに悩み、ゆきづまり、ざせつ感にとらわれながら、多くのものを学んだ。理論上は理解していても、目の前で泳いでいる子に、どのように指導していけば最もよいのか。

例えば、手と足のリズムがどうしてもかみ合わないためにスピードが出ない者、水のとらえ方の悪い子、足だけで泳いだ方が速い子など、三十人いれば三十種類の泳ぎ方をしている。ちょっとしたアドバイスで泳ぎが大きく変わる子、一人一人を見つめてより速いものを目ざしてきた。その中で、今まで問題にならなかった子供たちが、毎日の小さな積み重ねによって、みちがえるほどたくましくなり、自分の記録を伸ばし、やれば出来るという実感を持ったことは得がたい経験である。

みた目には、厳しい練習のようであっても、グループ間、あるいは、グループ内の人間関係もよくなり、一人一人が主体的に取り組んでいけば、小学生でも、かなりのところまで可能になると信じている。

私には、短い夏であったが、子供たちには、これで終わりなのだという限界がないことを、まざまざと見せつけられた思いがする。鍛えようによってではなく、鍛えなければならないのである。

(新地村立新地小学校教諭)

 

 

 


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