教育福島0028号(1978年(S53)01月)-021page

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教育随想

 

「理解」ということ

星光代

 

ほとんど口を開かなかった。いつも張りのない表情で一人ぽつねんとしていた。

 

A子が転校して来たのは、二年生の春である。前髪を長く下げ顔を半分隠していて、ほとんど口を開かなかった。いつも張りのない表情で一人ぽつねんとしていた。

二年生の後半になるころだった。頭痛や吐き気を訴え、時にはけいれんを起こし、躁と鬱(うつ)の状態がはっきりと出はじめた。劣等感、被害もう想、ひどいわがまま、不都合なことに出会うとそれらがむき出しになった。

三年生になると、この傾向がなお強くなった。専門医の診察を受けるように勧めたが、母親はかたくなに拒否した。閉鎖的で常に周囲を気にする母親はややノイローゼ気味だった。発作を起こすと睡眠薬や精神安定剤を買い求めて服用させていた。父親とは別居中であった。

こんなA子の状態にまったく戸惑ってしまった。閉ざされた心の中にあるものは、いったいなんなのか。

A子となんとか会話を持つことが先決であったが、話し合うということはまず無理だった。私のクラスでは四月からグループノートを書いていた。A子も、二、三行ながら書いていたので日記を書かせてみたらと思いついた。

この試みは成功した。A子は一日も欠かさず書き続けた。「相撲が好き」「野球が好き」から始まり、少しずつ心をみせ始めた。「頭のいい人ばかり先生がたからかわいがられている。」「この学校は規則が厳し過ぎる。」自己中心のわがままな主張だが、とにかくA子の心は日記を通してふき出してきた。

また、日記のやり取りの時にも必ず会話を交わすようになる。そうなり始めるとノートよりも話した方がいい。そうした会話の時に、今までかたくしまい込んでいた−幼稚園に入ったころから話せなくなったこと。小学校時代にはあちこちの神経科医にかかっていたこと。そして、その事実を、他人には決して話してはならないと母に言われていたこと−などを話した。

「他人に話してはならない。」という母親のことばは、A子の心を抑圧し、行動にゆがみをもたらしている。

A子に関する場合、医学的な治療を必要とすることはもちろんであるが、学校で出来ることは、A子に思うこと悩むことを自由に表現できる状態を作ってやることである。そして、教師はそれを共感的に受容してやる態度が必要だと思う。

 

温かいふんい気の学級づくりを

 

温かいふんい気の学級づくりを

 

先生がたの温かい一声もA子の笑顔につながった。特に養護の先生の所への訪問は、どんな薬剤よりも精神安定剤になったようである。

また、学級の生徒たちの力も大きなものだった。特別扱いにならないようにという配慮のもとに、A子の活動する場がそれとなく準備された。温かい学級づくりがいかにたいせつであるかを考えさせられた。

そんな中で、A子は少しずつ落ち着きをみせはじめ、三年生の後半には一度も発作を起こさなかった。依然ちぐはぐな行動は続いたが、目につくような不自然な行動も少なくなり、集団の中に自然に参加できるようになった。

A子を通じて学んだことは大きい。しかし、それは、こうすればよいなどというむずかしいことではなく、そうした方法的なものをのり越えた人間的なふれあいがいかに大事かを痛感させられたのである。

子供たちは、一人一人が全く違った悩みや問題をかかえている。しかし、共通して言えることは、彼らの悩みを膚で感じ、心でうけとめながら彼らとともに悩み喜ぶこと。それは、私たちがしなければならない一番大事なことのように思われるのである。

(いわき市立小名浜第一中学校教諭)

 

 

 


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