教育福島0030号(1978年(S53)04月)-031page

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S子からのたより

 

国分宮子

 

国分宮子

 

本校に赴任して、早一か月が過ぎようとしている。安達太良(あだたら)山を背に百三十四名の塩沢っ子の中に一日も早くとけこもうと決意を新たに努力しているこのごろである。私にとって、教師になって以来二度目の転任である。教師にとって、異動は一つの宿命のようなものと割り切っているものの、教え子との別離は、一まつの寂しさを感じさせる。

おりもおり、四月十日、私は一通の手紙を受け取った。前任地で一年・二年と担任したS子からのたよりであった。近況をくわしく書き連ね、最後に「わたしたちは大きく育ち、おかげでみんながんばっています」と結んであった。私はS子との二年間の生活を思い、まぶたの裏が熱くなってくるのをどうすることもできなかった。

S子はとても手のかかる子だった。学校から六キロメートルもある日山のふもとに育ち、祖父母のでき愛ぶりは異常とも思えるほどであった。入学当初、学校に行きたくないというS子の手をひいて、祖父は毎朝六時三十分に家を出、学校の昇降口の戸が開く前につく二人は、誰もいない校庭の片すみにある鉄棒で、前回り、逆上りの練習をして道行く人の目を引いていたという。ここには、確かに誰も侵すことのできない祖父と孫娘の幸せな時間と世界がある。しかし、この閉ざされた小さな家族の集団から、大きな学校という集団の中にS子がとびこんでくるには、抵抗と刺激の強すぎることは当然なことであった。

登校拒否、友達と一言も口をきかない。けんか、半日がかりの泣きべそ、注射拒否、母親の姿を見て後を追って帰る等々、数えあげればきりがない。S子の祖父母が、そして父母が注いだであろう愛情と親切さをS子は私に要求したのかもしれない−−が、私には、不可能なことであった。追いかければ追いかけるほど、親切にすればするほど逃げ回るS子であった。

 

明るく成長したS子

 

明るく成長したS子

 

私にとって、他の児童も放っておくわけにはいかないのだ。

ついにある日、S子を見て見ぬふりをして学習をすすめ、他の子と遊び、清掃をと続けた。すると、S子はがまんできなくなって、私に話しかけてきた。「先生、プリントちょうだい。」と、いってきたのだ。作業を続けるS子を私は励ました。級友たちは、じょうずに仕上げることができたと拍手をおくった。S子は自分の家族以外にも自分を認め、励まし、愛してくれる人のいることに気づいていった。このような中で、S子は集団のもつきまりや、きびしさを少しずつ受け入れられるようになった。とり方のうまいドッチボールでは、頼りにされる自分を発見し、図工では、得意の絵画の腕まえを認められる喜びを知った。

終了式の日、S子が丹精して作った毛糸の人形を小さな声で「先生、かざってちょうだい。」と渡してくれた。

「S子ちゃんは、今度は二年生よね。一年生の面倒をみてね」人から愛されめんどうをみてもらう立場から人を愛しめんどうをみてやる世界へ体験の輪を広げてやりたい。−−こんな願いをこめて話す私だった。

教職経験の浅い私にとってS子のことは驚きであったが、S子は、あるいはどこにでもいる子なのかもしれない。S子の成長は私には、すばらしい教育体験とうつったけれども、当然の成長なのかもしれない。

「わたしたちは大きく成長し、おかげでみんながんばっています」実は、大きく成長したのは教師である私だったのかもしれない。みんなと話してくれたS子の生活体験の広がりは、私自身の教育体験の広がりでもあるのだ。新しい塩沢の任地でこの輪をいっそう広げていきたい。

(二本松市立塩沢小学校教諭)

 

 

 


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