教育福島0030号(1978年(S53)04月)-032page

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一枚の写真

 

五十嵐義雄

 

五十嵐義雄

 

去年の春卒業していったA子から、先日一枚の写真を同封した手紙が届いた。生まれてまもない赤ん坊を抱いたA子と、童顔の男性が笑って写っていた。

一年前の三月、卒業式を終えた最後のホームルームで「A子は卒業するとすぐ東京に出て結婚することになっている。」とクラスの生徒たちに話をした。男の生徒は一瞬、へえーっという顔をしたあと「やおぅっ」という声とともに立ち上がって、いっせいに拍手を始めた。女子の生徒は、とっくに知っていたわという顔をして男の子をながめ、にこにこしながら男の拍手に合わせていった。拍手が静かになるのを待って、一人の女子生徒が、黒板の前に立っているA子に「記念品です。」と言って、リボンのかかった小箱を手渡した。それを見てちゃめっ気のある男の子が「胴上げしよう。」と言いだした。A子は女子生徒のかげに隠れるようにして恥ずかしがっていた。クラス委員はさっそくよれよれの学生帽をもって、男の生徒の間を歩き始めた。

教室のすみで、この光景をながめていた私は、半年前A子に相談をうけた時のことを思い出していた。三年の初めころから交際している人がいること、彼がまもなく東京に転勤になること、卒業したら結婚してほしいという話があることなど、うつむきながら話をしてくれた。私の口から「おめでとう。」という言葉がすなおにはでなかった。「高校生なのに」「不純異性交遊」「火遊び」「他の生徒への影響」等々の語句が次々に浮かんだ。とにかく両親に相談すること、卒業まで高校生であることを忘れないで行動すること、当分内密にしておくことなどを話した後に「おめでとう。」という言葉がでてきた。A子の話を聞いてすぐに「おめでとう。」と言えなかった私と、今、目の前ですなおに率直にA子を祝福している生徒たちとを比べてみた。彼らの方がどれほど人間味があるかわからない。その点で私は彼らより劣っていることだけは確かだった。笑顔のうずまきの中で、そのことをいやになるほど痛感した。そしてそのことが、今A子の写真を前にして昨日のことのように思い出された。

教員になりたてのころ「すなおな目で生徒の姿をみよ。」とよく言われた。年をとるにつれて、よけいなものが中に入ってきて、そのことがますます難しくなってきている。「自己を無にしてはじめて真実がみえる。」という言葉がある。難しいことだ。「自己を無にする。」などということは、難しい以上に不可能とさえ最近の私には思われる。四十を過ぎるといちおう自分の顔ができあがり、独善と偏見が、個性的という名のもとにまかり通ることが多い。生徒を理解するとき、世間体とか体面とかのきょうざつ物のまぎれこんでくることが気になってしかたがない。人間にはもともと、うるおいのほとばしるようなすなおさ、素朴さがあるはずである。そうしたものを大事にして生徒に接するとき、ほんものの教育への道が開かれるのだと思う。自己へのこだわりを捨て、体面とかのきょうざつ物を捨て、作為のない自然な、すなおな態度をとることによって真実に近づきうるし、ほんとうの教育へ近づくことができるのだろうと思う。若い人たちが、たとえそれが高校生であろうとなかろうと、結婚することは祝福されるべきことである。そして「結婚したいのですが」と相談をうけたとき、まず「おめでとう」という言葉のでるのが人間の自然な姿であろう。

一年余りが過ぎた今、赤ちゃんをまん中にしたA子たちの写真が私の机の上にある。A子から話を聞いた日「おめでとう。」とすなおに言えなかった私には二人の健康そうな笑顔はまぶしすぎた。卒業式の日、A子を心から祝福する生徒たちの拍手の響きは、今も私の耳に残っている。そこには人間が本来もっている自然なすなおさ素朴さがある。その姿をその響きを大事にして生徒に接していきたいと思うこのごろである。

(県立安達高等学校教諭)

 

 

 


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