教育福島0030号(1978年(S53)04月)-033page

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教育愚考

 

加藤文富

 

加藤文富

 

新しい六・三制の義務教育制度が実施されて、三十年を経過した今「温故而知新」ということで、一人一人が教育について考えてみることはたいせつなことである。日本の教育は、民主主義社会になってから非常に進展してきているが、また、矛盾した面も出てきている。特に人間の能力を知識だけにおきたがりすぎていたようであるし、知・情・意・体の調和のとれた人間の育成といっても、一番さきにある知が第一だ、というように順番をつけて考えすぎ、それが家庭にも、学校や社会にもしみこんでいったと思われる。この考え方からすると、教育とは学校だけにあるもので、頭さえよければよいということになり、学歴を重視することにもなるのである。

最近いろいろな教育上の問題から、家庭教育のことが反省され、教育がいっそう重視されるようになってきているが、子供の第一の教師は父母でありかけがえのない重要な教育が家庭にあるのだということを自覚すべきであると思う。しかし家庭に教育があるというと、なにか口で教えたがる教育ママ的存在を考えると思うが、そうではなくて、父母の真しな思いやりのある生活そのものが教育であるので、よく古くからいわれるように、教育は「耳より入るにあらず。目より入るなリ。」で子供は親の生活のあり方をはだで感じて教育されて身につけていくのである。この点家庭のあり方を反省して、しつけるべきところは真の愛情ときびしさをもってしつけるべきである。

参考までに、信濃教育会編の、和田英著「我母の躾(しつけ)」という本の中の三十数項目にわたる、家庭教育の基本的指導事項の中の一つを挙げてみると、

「心に恥じぬような行いをせよ」

という、母の教えがある。これは何事をなすにも我が身の行いを自分ほど知っている者はほかにないのであり、善いことをするも悪いことをするも、だれよりも一番よく知っているのは自分なのだから、我が心に恥じぬような行いをせよと教えている。そうしていつも次の二首を聞かせて、我が子を導いたそうである。

 

人問わば鷺を鳥と言いもせめ 心が問わば何と答えん

 

人知らぬ心に恥じよ恥じてこそ ついに恥じなき身とはなりなん

 

ぜひ今のお母さんたちに一読してもらいたい本である。

現在家庭教育におけるあまさや保護のいきすぎから、考えて苦労してできたうれしさや喜びを経験させず、すぐに結論を与えてしまう。そして、生活のあわただしさと浅さ、というようなことが、学校教育の面についても反省されるのではないかと思う。今、子供たちは異常なまでに経済成長をとげた物の豊かな中に育っている。こうした社会生活での影響もあると思うが、きびしさに耐える心と身体を錬成する面で考えていく必要があると思う。

聞いた話であるが、某中学校ではバスや列車で通学する生徒は座席に腰かけたいで席をゆずることにしており、そうした通学途中においても心身を練り、他人に対する思いやりの教育をしているということである。教育のきびしさ、生活のきびしさを身につける教育を受けている子供たちは、過保護で甘やかされて育っている子供と比べるとたいへん幸せなことである。また最近欠けている点を強化するために、教育に労作的なことを重視して人間教育をくふうして実践する学校もでてきているが、家庭教育の面でも、学校経営・指導についても、創意ある生活、しつけをしていく必要があると思う。

また、よく聞かれる話であるが、会社等で社員採用のさい、学校を卒業して入社してくる青年たちは、確かにいろいろな知識は身につけてきている。しかし人間としての修練ができていないし、親も青年も現場で働くより事務所で働く方がカッコイイと思っている。このような青年は家庭教育がなっていないということで、その採用をとりやめたということである。真の子供をいたわる愛情のはきちがえである。

教育者はもとより、教育関係者は強く反省し、各の立場から範を示して教化していかねばならないと思う。

(三春町教育委員会教育長)

 

 

 


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