教育福島0030号(1978年(S53)04月)-034page
心に響く教育を
野□久雄
朝のしじまを破って元気よく教室にとびこんでくる子供たち。「おはよう。」「くろちゃん、おはよう。」テレビのそばに置いてあるカラスの縫いぐるみにまであいさつして、つぶらなひとみの一年生は、まったくあどけない。
娘の作った縫いぐるみに手を加え、腹話術のまねごとをしたら、とたんにのってきて早速、クラスのアイドルにされてしまった。
「けんかすんなよ。」「きみ、わるいぞ。」くろちゃんの口を通すと厳しいしっせきの言葉でも、やわらかに相手の心にしみ通るから不思議である。
そういえば、いつごろからだろう。日に一度は、子供たちの心をゆさぶり生きとし生けるよろこびと、人生におけるペーソスを体験させなければと考え心に響く教育実践を志向したのは−。
思えば、個性も能力も違う子供たちをひとまとめにして、やれできるのできないのと、そればかりを問題にしていたとき、両三度にわたり大きな転機があり、私の教育理念が急速に変っていったように思う。
だいぶ以前、ある日の職員会での校長先生のことば
「私は、先生がたを部下、同僚としてよりむしろ、一家のあるじとして遇していきたいと思う。立場、年齢は異なるが、それぞれ一家の主人であり主婦である先生がたを疎略に扱ってはばちがあたる。それと同じく、先生がたも子供は、その家にとってかけがえのない存在であることを忘れないでほしい。」″かけがえのない存在″確かにその認識がなくては、個に即した教育も血の通った心の教育もできないはずである。
それ以来、私の口から、子供に対するいかりのことばは、ついぞ出てこない。
二度目の転機、それは、新緑の六月立山連山を遠望する越中富山の堀川小学校の玄関に一歩足をふみ入れたときに始まる。
この笑顔に輝かしい教育の明日を信じて
教師が、児童と問答しながら教科書の、とある一ページをいっせいに教えていくといった従来の指導方法とは、まったく異なった授業が、そこには展開されていた。一人一人が、その日の学習計画をもち自力で学習を進めていく。はじめはその方法に抵抗を感じていたが、一週間の滞在ですっかりその魅力にとっつかれてしまった。
個に即した指導。でも、それは言うにやすく行い難いことである。だが、やらなければならない教育の課題である。
その点、先年個人の自由独立を尊ぶアメリカでの研修に参加したとき、クエールクリーク小学校での教育実習において、能力適性に応じた個別指導が行われていることを身をもって体験した。これが三度目の転機であったかも知れない。
でも、まだまだ、子供たちをとりかこむ現状は厳しい。思いまどう私にまたひとつ開眼の機会が訪れようとしている。昨夜来、無中で読んでいる『ミュンヘンの小学生』の異色な学校生活とシュタイナー小学校の教育理念が私の心をとらえてはなさない。
そこには、詰め込み教育も落ちこぼれもなく、まして能力による選別もない。まったく個に即したエポック授業なるものが展開されているという。
近い将来、機会を得て、ぜひミュンヘン市に飛びフオルメンによる文学学習、オイリエトミーなる身体活動とはどんなものかを確かめ体得してきたい。
目の前に並ぶ、かわいい子供たちの輝かしい明日のためにも、一人一人の心に響く教育を志向し、まだまだ教師としての研修を重ねていかなければならないと思うこのごろである。
(郡山市立小原国小学校教諭)