教育福島0030号(1978年(S53)04月)-037page

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図書館コーナー

 

子供の読書と図書館振興の月

 

○読書環境の整備を

評論家(近代史・出版評論)の紀田順一郎氏は「子供が本に興味をもたないが、どうしたらよいか」という相談をうけると「家に本をそろえたらどうですか。それも子供向きのものは、子供自身が発見してくるから、思い切って大人の本をそろえなさい。そして好奇心を刺激することです。」と答え、更につけ加えて「親が読書している姿を見せなさい。」とアドバイスすることにしているそうである。

もちろん、家に大人の本をそろえるとか、子供の本は子供自身が発見するうんぬん…のくだりは異論や疑問の余地がないでもない。だが、氏のいいたかったことは要するに、子供が一人まえの読書人として成長して行く過程の「最初のきっかけ」をどう与えるか。それは、読書環境の整備とそれを促す人の問題が重要なのだということであろう。

事実、読書活動などに多少ともかかわりを持ったことのある人なら、このことは容易にうなずけるはずである。

「テレビばかり見ていて、さっぱり本を読まない」と嘆くが、それは魅力ある本を与えないからテレビにばかり向いてしまうのである。「子供はみんな本好きです。」とは、ある文庫のお母さんの確信に満ちた言葉であるが、このことは多くの事例が証明している真実である。まず子供の身近に、魅力ある本を豊富にそろえることが、子供を読書好きにする第一歩なのである。

次に必要なのは、好奇心を植え付けたなら、それを着実に伸ばしてゆく導き手の存在である。それぞれの子供の個性・発達能力にあわせて、どの本をどう与えるか。読書の基礎がかたまり自立するまでには、それにふさわしい指導者が必要なことはいうまでもないであろう。

ところで、ではなぜ子供に本を与えねばならないのか。その原点に疑問を持つむきもあるだろう。確信をもって与え導くためにもその納得できる解答は必要だ。

古今東西の「読書論」は多くのことを答えてくれるが、ここでは小泉信三氏の準古典ともいえる『読書論』によってその一端を紹介するに止めよう。

それによれば、読書の効用は、今日種をまいて明日刈れるというような、「卑近の実利」をもって判断すべきものではなく「人類の文化の偉大なる産物はこの卑近なる意味においては無用なる読書、無用なる思索の中から生まれたのであることを忘れるべきではない。」という読書観になるのであるが、子供の読書についても、その質的意味は変らないのではなかろうか。

本を何冊読めば、これだけりこうになる。これだけ成績が良くなるといったたぐいの「卑近の実利」に重きを置くべきではなく、小泉氏のいう「無用の読書」という読書の真髄を身につけることにこそ意義があるのではなかろうか。

 

図書委員会の貸し出し風景(東館小)

 

図書委員会の貸し出し風景(東館小)

 

近年よく指摘されることであるが、読書は習慣であるという面が確かに大きい。また子供の時に出会ったある一冊の本によって、その後の人生の方向が定まったという経験談も数多く耳にする。子供の、そして人類の豊かな未来を約束するためにも、今我々は子供の読書に大きな関心を持たねばならないし、そのための読書環境の整備充実は急務であると考えるのである。

○図書館振興の月

秋の読書週間と並ぶ、図書館にとって意義ある社会的イベント(event)がこのところめじろ押しに続く。四月三十日の「図書館記念日」五月五日を中心に前後の二週間は「子供の読書週間」そして五月いっぱいは「図書館振興の月」といったぐあいである。

「読書の必要性と重要性は認めるがいざ自分の読書生活ということになると…」と言葉を濁してしまい、ともすれば抽象論・消極論に陥りがちな現状を、子供の読書を基点にすえて、なんとか克服したいものである。

一時期は「脱活字化」が当然のようにいわれ、読書不要論さえもが幅をきかせたものである。今でもそれぞれが完全に克服されたとは言い難いが、子供の読書・児童書への関心、そして生涯学習に果たす図書館の役割への期待も着実に高まってきた。抽象論ではなく、読書環境の整備という具体を、活字離れ現象に流されて消極になるのではなく、読書の価値の復権を積極的に掲げ、この振興の月を真に意義あらしめたいものである。

 

 

 


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