教育福島0031号(1978年(S53)06月)-027page

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教育随想

教師の喜び

 

酒井安正

 

酒井安正

 

「先生。勝ったあ。先生…」。目にいっぱい涙して駆け寄って来る子供たち…。校長先生も私も、もう涙をこらえることはできなかった。

あれは、忘れもしない一昨年の十一月二十三日のことである。その年最後の少年剣道大会が、会津若松市で開催された。そこに私の担任している子供たちも参加した。これまでどうしても勝てなかった会津白虎剣士会に代表決定戦の末、堂々団体戦に勝利を得た。その瞬間の情景である。

私の、この子供たちとの出会いは、今から三年前のことである。再度の伊南小勤務。しかも、私の母校ということで、子供たちや、地域の人たちの期待にこたえるために、誠心誠意自己の力の限りを尽くさなければと、そんな気持ちで、なにか身のひきしまる思いで赴任したのが始まりである。

本校の子供たちは明るく、すなおである反面、現代子に共通な「ねばり」や「根性」に欠けている。そのことは学習の上にも、また、あらゆる生活場面においても見られ、それがもうひとつ自主性、向上心を阻む結果になっているように感じられた。苦しいこと、いやなことはできるだけ避け、安易な道へ逃れようとするのは、だれしも同じであるかも知れないが、それで済ましてしまっては、教育はない。

子供たちが全神経を集中し、汗を流し、苦しさに耐えて自己を練る。そんな場が教室以外に欲しい。そんなことを考えていたやさき、校長先生から、「酒井君、子供たちの様子を見ていると、なにか一つ気力が足りないようだ。用具室に剣道具がたくさん眠っている。それを生かして、村の伝統でもある剣道をみっちりやって、根性づくりをやってみようではないか。」

と、言われたとき、私は、水を得た魚のように(これだ。これがあった。)と思い、一も二もなくそのことに賛同した。

早速課外活動の中に剣道を位置づけ、全職員の共通理解のもとに練習を開始した。父兄や、地域の人々の理解もあって、練習に参加する子供たちがしだいに増し、練習は活気に満ちていた。

しかし、毎日の練習は、これまで困難に堪え、なにかをやり遂げるような場のほとんどなかった子供たちにとって、どんなにつらかったことだろう。

 

きびしい練習に耐える

きびしい練習に耐える

 

強く打たれて泣き出す子。早く家に帰ってテレビを見たいと言う子。そんな子供たちを励まし、力づける毎日であった。私自身、正直のところ、くたくたになって帰宅し、明日の教材研究をしているとき、何度かざ折しそうになったこともある。だが、つらさに耐えて歯をくいしばり、涙しながらもがん張っている子供たち。先頭に立ってがん張っておられる校長先生を思うとき、自分が恥ずかしくなり、心にむち打ってきた。

それがあの勝利の瞬間の「先生…」と駆け寄って来た子供たちの涙している目を見たとき、教師としての喜びでいっぱいだった。あの日は、持てる力を出しきった満足と、自信と気力にあふれていた。「やればできる」そう言っている目であった。そのことは、卒業文集にほとんどの子が書いている。「私は、何度か練習をやめようと思った。でも、今になってやめずに続けてよかったと思う。…なんでもやればできるんだなあ…。」

「ぼくは、きびしい練習に、何度か校長先生や、先生をにくらしいと思ったことがある。でも今は、先生の気持ちがすこしわかるような気がする…。」

子供たちは、あのきびしい練習からなにかをつかんだ。そう思うとき、私はこの子たちとの出会いに感謝するとともに、教師としての喜びをしみじみと味わっている。

(伊南村立伊南小学校教諭)

 

 

 


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