教育福島0031号(1978年(S53)06月)-028page
教育随想
生徒の笑顔を見て
永山詠子
「先生できました。」
いつもより大きなM子の声、顔をあげると、完成したワンピースを、両手で自分の前に広げ、うれしそうに立っていた。「よかったね。よく似合うよ…」と手をのべると恥ずかしそうに、しかし、完成の喜びを隠し得ない晴れやかな顔で、見せてくれたのを忘れることができない。
M子は、朗らかな、人なつっこい性格の生徒であったが、学習の理解力や縫製の技術は特に低く、いっせい指導のなかではついていけずそのつど部位ごとに個別指導を必要とした生徒である。しかし、ちゅうちょすることなく、自分から同じところを何度も聞きに来るため、その度ごとに、「果たして完成できるのかしら。」と不安を感じたものでした。それが「できた」のですから、本人の喜びはもとより、私もまた、本人同様、肩の重荷も、胸のつかえも、M子の笑顔とともに消え、喜びに変ったときの体験を、今もワンピース製作に取りかかる度に、思い出されてならない。
先日も、やっと補正に入ったある学級で、次々に聞きに来る生徒の指導に、顔をあげる暇もなく続けているうち、時間が終ってしまった。やっと顔をあげて生徒一人一人の顔を見ると、なぜか目のはれている生徒が目にとまり、声をかけると、ポロポロ涙をこぼし、自分の補正が、見てもらえなかった不満を訴えてきた。このときの、いいようのない、せつない思いは、この授業の結果重くのしかかってきたのである。このままではいけないと思い、早速休み時間をさいて、指導をしてやると、黙ってうなずいていた。
放課後何人かの生徒が、補正をしていた。そこには、さきほどの生徒K子も明るい顔で、補正をやっていた。気にかかっていた私は、ほっと安どの胸をなでおろす思いがした。
私は教師として、さまざまな能力の生徒を、いっせい指導のもとでは、とうてい完全に目的を達し得ない、現実の悩みを抱え、生徒に接して、常に自分の指導技術の足りなさを、反省させられている。
見落としのない指導を
M子やK子のような生徒は、その年だけの例外ではない。毎年このような生徒のいることは事実である。そしてこの種の生徒は、四十数名の授業の中で、どれほど教師の手を必要とし、時間と労力を費やしているか、教師は、これら一人一人の生徒を、どれだけ見てやれるかを考えると、悩ましい限りである。
教師生活二十余年、同じような悩みと反省を繰り返しながら、ときとしてM子のような晴れやかな顔を見るとき、満ち足りた気持ちを味わうことができ、それまでの苦労も、忘れてしまう。
本校は、実質統合四年目を迎え、施設設備の充実した、すばらしい教育環境である。その環境の中で、生徒は今学業はもとより、体力つくりにいそしみ、心身ともに健全な身体の育成に、つとめている。そしてこの生徒が、やがてりっぱな大人に成長することを願いつつ、全職員生徒とともに汗を流してがんばっている。私もまた、家庭科学習をとおして、生徒指導に全力を尽くしたいと考えている。しかし種々の問題につきあたる度に、この生徒が、どのように成長するだろうと考え、教えることのむずかしさを、いまさらのように感じ、新たな指導への意欲が起こるのである。
(大熊町立大熊中学校教諭)