教育福島0032号(1978年(S53)07月)-024page

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ずいそう

 

子供の可能性

 

武藤宏

 

武藤宏

 

今から、十数年も前のことである。駆け出しの私にとって、T校長との出合いは、自分の教育理念を培う意味で、大きな影響を与えてくれたものと思っている。それは、真の教育のあり方に対する目を開かせてくれたことである。即ち「真の教育とは、一人一人の子供の可能性を信じることであり、しかも、子供の内にある可能性を引き出し、それを成長発展させていくということである。」と。

ややもすると、子供の思考力の育成なり、学習に取り組む意欲なり、主体的に学習を進める態度を育てることへの難しさを、子供に問題があるかのごとく、責任を転嫁しがちな自分であったことに、大きな警鐘を与えてくれたのである。

その上に、この教育に対する考え方を裏づけるように、真の教育のあり方を追究している実践校の参観の機会を与えてくださった。

七月の初め、全職員で、富山市立堀川小学校を参観したときのことである。

私は、内心では、子供の可能性を引き出すことに対する考えに半信半疑であった。しかし、私の懸念は、一瞬のうちに吹き飛んでしまった。

案内されて入った五年生の教室での授業の展開は、今までの自分の授業のイメージとは全く違った広大なドラマであった。

子供一人一人の学習意欲に支えられた総力をあげての子供同志のぶっつかり合い、子供自身の考えとは思えないような考えの深さを、惜しげもなく出し合って、お互いが、お互いを高め合って問題解決に進んでいく姿に、ただただ、圧倒され、くぎづけにされて、あっという間に四十五分間の授業参観が終ってしまったのである。私は、心の奥底から感動し、涙をため、ぬぐいさることさえできず、その場に立ち住生するだけであった。まさに、子供には、すばらしい、内に秘めた可能性にいどむ力があることを、強烈に印象づけられたのであった。このことは、私のみならず、いっしょに参観された先生がたも、同じ気持ちであったと思う。

九十パーセントまで、教師の活動によって進めてきた授業が、堀川小では、全く逆であり、しかも、 一人一人の子供が、自分の能力の限界に挑戦しているのではないか。もはや、今までの自分の授業展開のパターンを棄てない限り、真の意味での教育を、遂行することができないのではなかろうかとさえ思ったのである。

この感激は、私だけでなく、参観された先生がた一人一人の胸の中からも消えることなく、生命の火は、生命の火によって点火された思いであった。

この堀川小の子供たちのように、私たちの子供にも、この生命の火を点火することが可能ではないかと、その時点から、学校全体の実践研究が始まり、十数年たった今も、とぎれることなく続いている。

真に教育するということは、自分が燃えることに基盤があり、すなおな子供たちから、謙虚に学ぶことからはじまるのだ。「子供から学ぶことができる教師は、子供を真に知り、真の教育をすることができる。」ということを知ったのである。

あの事があってから、十数年来、一人一人の子供を見つめ、子供の内にある可能性を引き出す苦労を続けてきたのであるが、ますます、その難しさを感じている昨今である。

これからも、あのときの感動が、私の教育の基本となって、心の中に生き続けていくことであろう。また、私の教育理念を育ててくださったT校長を、忘れることができないであろう。

(西白河郡矢吹小学校教諭)

 

子供の発想をたいせつにする

子供の発想をたいせつにする

 

 

 


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