教育福島0032号(1978年(S53)07月)-025page

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ずいそう

 

思い出すことなど

 

鈴木登

 

鈴木登

 

今年で十八年の教員生活になる。社会科の教員として歴史を担当したり地理・政経といったぐあいに雑学よろしくやっている。

教員になったばかりのころ、ある先輩教員から「教室は教師の戦場と思ってやれ」とか「教師たる前に、まず人間的な触れ合いをたいせつにして教育活動に臨め」といわれ、気負いながらも肝に銘じて夢中になって生徒たちの中に飛びこんできたが、気がついてみると、はや四十歳。不惑の年どころか悪戦苦闘の毎日。でも振り返ってみると、心に残る教育活動のとき、生徒の顔、場面が浮かんでくる。特に進学指導を通してのささやかな生徒との触れ合いを拾ってみる。

T君、彼は私が最初に赴任した県境の山あいの町にあるN高校のときの教え子である。新潟県のK町より通学していた生徒であるが、入学時ごろは、無口で青白い顔のめだたない生徒であった。学校全体の空気は今と違い、のんびりとしたムードで就職中心の時代・生徒たちの進路に対する意思決定もおそく、三年になって、ようやっとといったぐあい。数人の進学希望者が集まり放課後遅くまで、夏のうだるような暑さの中で、ある時は吹雪の吹きこむ教室の中で、火の消えかけたストーブをかこみ同僚の先生と協力して、くいついてくる生徒たちの真しな態度に感激してマンツーマンで接した。その中の一人が彼である。晩秋のある日曜日であったが、彼は本など小わきにかかえて拙宅を襲う。「先生、スランプだ。」自分なりにアドバイスをする。いっしょになって問題を解き終えれば夕方妻の手料理で彼も食ぜんに向う。

思うに、当時は学校の施設は空虚そのものであり、実在したのは教師と生徒のみであったようだ。でも、すばらしい人間的触れ合いがあった。 一浪はしたが目的の大学に合格した彼は現在横浜市の小学校教員として活躍している。奇縁にも、彼の妻君が私の前任高校W高校での教え子の姉とかで、毎年拙宅に顔を見せては、夜を徹して教育を語り、人生を語り合う。しみじみと教員としての喜びにひたれるときである。

次にB君、彼は前任校W校のときの教え子である。W高校は実業高校である。比較的能力の高い生徒が入学してきていたが、学校全体としては、進学ムードより就職態勢のムードが強かったころだ。卒業と同時に実社会の第一線にでていく生徒たちを対象に教育を主にしてきただけに、年々の進学希望者増加の現象は、実業高校のあり方にも微妙な問題をなげかけると同時に、現実問題としては進学指導のあり方、その徹底をいかにしていくか痛切な問題が山積していた。補習を開始しても日数が経るにつれ出席者の少なくなっていく、受講者の先細り現象に悩み、自分の非力をさびしく思い、指導そのものに疑問をもち、他に良策がないかと苦悶したものです。最後のころには数人となる。その中の一人が彼である。コツコツとやった彼は、現役で見事M大学に合格。朗報に肩を抱きあい喜んだが、現在大学四年生。律義にも近況かねてよく便りをくれる。

自分は校務分掌の関係で数年間クラス担任から遠のいている。転勤を機会に初心にかえり、来年はぜひ担任をもち、がき大将になり、生徒たちと悩み、喜びをともに心の琴線に触れあうような人間関係をもちたいものだ。マンネリになりがちな自分をむちうち、毎日の教育活動に悪戦苦闘しながら、いかにその道が険しく苦しくとも、そこに教師の本質的な人生があるのだと思いたい。

「いのち短く、道ははてしなし」の言葉も、教育の道に関しては特に切実な響きを持つように思われる昨今である。

(福島県立坂下高等学校教諭)

 

 

 


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