教育福島0032号(1978年(S53)07月)-034page

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わが町の社会教育

町ぐるみの社会教育

山都町教育委員会

 

はじめに

 

本町は福島県の西北に位置し、町の南部を阿賀川が洋々と流れ北に、飯豊の連峰を仰ぐ山紫水明の郷である。

総面積の八三・二%が山林で占め、冬は飯豊おろしが厳しい特別豪雪地帯でもある。かつて九千三百余人を数えた人口も、現在は五千六百四十人と減少し典型的な過疎の町でもある。

広大な土地に三十四の集落が東西五キロ、南北三十七キロにわたって点在し、その大半が農業に従事している。しかし、出費補てんのため出かせぎ等による現金収入への依存度も高まってきている。

わが町には、小学校本校三、分校七、中学校三と計十三校があるが児童も年々減少し、部落により就学前の児童皆無のところもあり、将来は中学校統合の声さえ聞かれるようになってきた。

 

青年教室「若者」運営委員会

青年教室「若者」運営委員会

 

反面、町が非常に明るくなってきたとの声もある。それは、町民永年の望みであった農用地の基盤、道路整備とともに、社会教育・社会体育施設等が整い、それが町民の生きがい希求とあいまったものと考えられる。

 

一、社会教育の歩み

 

町公民館は、昭和三十九年補助事業として鉄筋コンクリート造りで建築され、以後社会教育の多様化と事業の拡大により狭あいとなり、昭和四十八年にしゅん工した開発センターに移動し事業を実施している。この建物は近代的設備を有しており、この活用で大きな効果を挙げている。

また、社会体育施設として、雇用促進事業団委託の山都勤労者体育センターが、本年四月オープンし、その管理も教育委員会が行っているため、実質的には社会体育館として利用度が高い。

町には三十四の部落公民館があり、独自に又は町公民館と共催事業をし身近な社会教育施設として活用されている。町では事業の内容を検討し、わずかではあるが補助金をだして地域の社会教育の振興につとめている。

今でこそ、社会教育、生がい教育ということが聞かれるが、わが町の社会教育のルーツを探ると、戦後まもない昭和二十二年、当時の村長佐藤寅次郎氏(現山都町公民館長)が、敗戦後の日本を再建するためには、国民一人一人が自己を高め、人格の養成につとめなければならないとし、いち早く役場内に公民館を設け、一般町民を対象とした興民講座、成人講座を開設した。そして毎日曜日小学校を会場にし、百人〜百三十人の受講者が、村政、新憲法、又は国際問題と広範にわたる領域を学んだ。その講座の講師は大学教授、商店主などでその陣容は非常にユニークなものであった。

山都町の社会教育はこのようにスタートし、以後これを基調として内容も年々充実し、昭和四十八年には優良公民館として文部大臣表彰の栄誉に浴している。

 

「若者」料理はみんなで

「若者」料理はみんなで

 

 

 


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