教育福島0033号(1978年(S53)08月)-028page

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一日一日をたいせつに

 

岡田静江

 

岡田静江

 

自然界のすべてが新生の観を呈するような春。このときの新学期は教師にとってもまた期待、決意など新たな思いがわくときであるが、転任したての新任者には多少の不安も加わる。さあどんな毎日が待っているだろうと、種々の思いで始業式前のひっそりとした校内のあちこちを巡ってみる。

しかし、始業式、入学式を終え、新学期特有の諸行事を経ていくうちに、ああやっぱりこれが学校の姿だと感ずる。生徒たちのいないときとはなんと違うだろう。校内いたる所に若い姿が満ちている。職員室では新担任の先生がたが、忙しそうにしかし活気に満ちてキビキビと仕事をしている。周囲に活気があり適度の緊張感がある。そんな様子を感じ見ているのは気持ちがいい。

今年の新学期は特に忙しかったようだ。二年に一度の大きな催しである体育芸能祭が、時期を繰り上げて四月中に行われたからである。これは体育祭と同時に、古くからこの地方に伝わる芸能(田植踊り、御神楽、流れ山踊り、宝財踊り、剣舞)を練習して披露するものである。当日までに二週間余りしかない。この間に生徒たちは、今や地域の人々にとってさえ″なつかしいもの″となった踊りを覚え、太鼓や横笛の奏法を覚え、他に各種の競技の準備をするのだ。とにかくこの間は、その日一日に予定されたことを消化しきらないと、即、翌日の予定が狂うような毎日だった。教師も細かく分かれた各部所でそれぞれ準備を進める。学校中が体育芸能祭をめざして動いた毎日だった。

 

体育芸能祭「流れ山踊り」

 

体育芸能祭「流れ山踊り」

 

そうして、こうした毎日を積み重ねての芸能祭当日、衣装を整えて踊った踊りはどれも華やかだった。前日まで失敗を繰り返していた組体操は、当日全部成功した。このような姿に若さのエネルギーを見たが、それとはまた別に、あることが成功するには、それなりの過程があり、それは直前までの部分部分の積み重ねによるのだと誰もが感じたことと思う。目には見えなくとも、陰でどれだけ多くの人々が手を尽くしたことか。その細かな事が集結してこそ、体育芸能祭は成功したのだった。

私たち教師は、学校で毎日の生徒たちとのさまざまなかかわりの中で物を考え生活している。一人一人の言葉、行動に一喜一憂し、二度と繰り返されることはないことに面しつつ時を送る。これは生徒も同じである。家庭で、学校で、彼らなりの種々のかかわりの中にいる。そしてその彼らの年代は、思考や情感が完成に向いつつある時であり、今この毎日の過ごし方が今後の彼らの進む方向を決めるといえる時なのだ。あたりまえのことだが、これを生徒たちも深く考え自覚して欲しい。誰もが内面的に豊かになるべく、日々、向上心を持ち続けねばならない。

体育芸能祭も終わって落ち着いたころ、前任校の生徒たちからの手紙が届く。

「先生お元気ですか。新入生を迎えて私たちも少しおとなになったような気がします。」

こんな文が見える。一人一人の顔が浮かび、今の目の前の生徒たちの姿と重なる。そうだ、あのころも何もかも新しい経験で、生徒たちには頼りなく写っただろうが、毎日夢中だった。そしてそんな一日一日が今日に、今の自分につながっている。そして今日はまた明日へ、その光へと続いていく。この一日一日をたいせつにしなければ……。

こんなことを考えながら、今日も生徒たちの「おはようございます。」の声とともに校内に入る。

 

(相馬農業高等学校教諭)

 

 

 


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