教育福島0034号(1978年(S53)09月)-021page

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「ご隠居さま…」娘は老人のそばに立ちどまると、顔をおおってしまった。「あの……福原先生が……」

「なに?」

邦枝がぎょっとして、家の方をふりむくと、玄関からあの僧体の人物がゆっくり出てきて、袂から数珠をとり出すと合掌してみせた。

(小松左京著『日本沈没』)

(二) 息子の死を語る母

大学教授の長谷川先生が、ある日、一面識もない四十歳がらみの賢母らしい和服姿の婦人の訪問を受けた。婦人は先生の教え子の母で、腹膜炎にかかって死亡したため、生前のお礼かたがた報告をするための来訪であった。

先生は、この婦人の態度、挙措が自分の息子の死を語っているらしくないことに気づいた。涙もない、声も平生どおり、口角には微笑さえ浮んでいる。不思議に思っているやさき、先生がうちわを床におとしてしまい、それをひろおうとしたとき、

「その時、先生の眼には、偶然、婦人の膝が見えた。膝の上には手巾を持った手がはげしくふるえているのに気がついた。ふるえながら、それが感情の激動をしいておさえようとするせいか、膝の上の手巾を両手で裂かないばかりにかたく、握っているのに気がついた。そうして、最後にしわくちゃになった絹の手巾が、しなやかな指の間で、さながら微風にでもふかれているように、ぬいとりのあるふちを動かしているのに気がついた。−−、婦人は、顔でこそ笑っていたが、実はさっきから、全身で泣いていたのである。」

(芥川龍之介著『手巾』)

(三) 夫婦関係の破綻

役人を停年でやめ、学校事務史員をしている家庭で、兄二人の下に育った美根子が結婚して半年ほどしたとき、ガス自殺をする。夫には愛人がいて、外泊が次第に多くなり、美根子に対する振る舞いにも傍若無人で、料理を皿ごと投げつけたり、ば言をあびせることが多くなってきたやさきのことであった。夫の泰孝からの知らせで、娘のアパートへかけつけ、様子をきき、長男を手伝いによこす旨話して帰る道すがら、老夫婦の会話が続く。

「普通ならば、あの位のことで死ぬ筈はないんだ」といった。

「でも、あの人たちみたいな、あんな意地のわるいやり方をされたら、私だって死にたくなりますよ」

「死ななくても離婚すればいいだろう。美根子はなぜ離婚しようと言わなかったか。問題はそこだよ」

「妊娠していましたからね。そうでなければ帰ってきたでしょうけれど…」

「そうじゃないね。帰りたくても帰れなかったんだ」

「どうしてですか」

「お前と口喧嘩をして飛び出して行ったのが、骨身にこたえていたんだ。詳しい事情は俺にもよくは解らないがとにかく、テレビをもらいにきたときは、よほど事情が切迫していたにちがいない。いわば親もとに助けを求めてきたんだ。それをお前は、ちっとも解ってやらないで、口喧嘩をして追い返してしまったんだよ。だから、美根子は泰孝とのあいだがいよいよ駄目になった時になって、帰りたくても帰る家がなかったんだ。帰ってきて温かく受け入れてもらえる自信が無かったんだ。そのために、離婚しても行くところがないという気持になったんだろうと思う。」

(石川達三著『愛の終りの時』)

 

二、調整度のちがいから見た行動体制種

 

およそ生きとし生けるものは、それぞれ個体と周囲との間になにかの秩序をもった相互交渉(同化、調節)が進行していなければならない。この相互交渉の進行につれて、生活個体内外の状態も変化する。

各個体においては、身体内の変化及び周囲の変化を視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚等の諸様式による感性信号として取り込み、動作や反応の強弱及び方向量の調整に統合しながら、それらの変化に対応あるいは対抗する秩序のたてなおし(順応変換)や、その個体にとっては新しい秩序の構成(順応形成)によって相互交渉がつづけられる。

(一) 行動体制の危機

旅に出て床が変ると眠れなかったり、通じがなくなったりする。また、ある研究集会で県を代表して発表することになった当日の朝などに、それへの強い準備反応の状態のおこる競合状況にあって、食ものどを通らないといったことも読者には身に覚えがあるだろう。更には、めったにしか起こらない大きな地震に遭遇してのあわてふためきや、『愛の終りの時』の美根子のように、彼女なりの順応変換、形成への努力もことごとく失敗し、ある時は怒りを爆発させ、またある時は悲しみにうち沈み、ついには逃げ場を失ってみずからの生命を絶つこともある。

これらの行動種は、急速な及び/または大きな状況の変化にあって、それに対応あるいは対抗するのに持ち合わせの行動種をもってしてはまにあわないときに起こる。このような状況を行動体制の危機というが、概括すれば、次のような行動型に整理できる。

1) 旧秩序体制の抵抗

生活個体内の状態および周囲との関係において、すでに習得している反応行動型が優位なため、順応形成とのあいだに対立、競合の状態をひきおこすような場合がこれにあたる。

アベロンの野生児が人間社会との接触をはじめた当初にみせた混乱、中途失明者が空間は握の再体制化をすすめるなかで繰り返すつまずき、機構改革による配置替えの結果招来する当事者のとまどいなどがあげられよう。ここでは、多く、周囲への無関心、嫌悪の中にあって、荒々しい感動あるいは激情的な興奮といった形であらわれる。

 

 

 


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