教育福島0034号(1978年(S53)09月)-024page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

ずいそう

中島賢司

このたびFMC混声合唱団の一員として、六月十三日から三週間、西ドイツ、スイス、イタリア、バチカン、フ.ランス等を訪問して、合唱とホームステイ(民宿)により人々と交歓を深め、ローマ法王に特別謁見をしてきた。この旅行を通しての感想を述べてみたい。

◇ドイツ、フランスの国土は広い

つい、大陸の一部であることを忘れていた。開港した成田空港は羽田の四倍の広さを誇るが、ドゴール空港は成田の四倍の広さがあり、以前は三人の地主のものであったという。

ドイツの有名な高速道路アウトバーンは速度制限がない。起伏やカーブも少なく、ポルシェやベンツが走るにふさわしい道路である。片側四車線の中央寄りでは、二百キロ以上で走っている車をしばしば見かけ、びっくりした。

また都市の中に森や林が延々と続くことも珍しくない。

◇質素で合理的で勤勉なドイツ人

今日の日本では、ドイツの家庭の食事よりはるかによいものを食べている。朝はワインかコーヒーにトーストまたは黒パンだけ。昼は少しにぎやかになってマッシュポテトやポーク、サラダ等が加わる。夕食は、朝食にハムかソーセージかゆで卵のいずれかが入るくらいである。

子供はよく家の手伝いをするし、どの家庭でも主婦の掃除がいきとどき、家具や手すりはぴかぴかにみがき上げられている。

上げ下げ自在のシャワーの設計。アンテナをフロントガラスに組み込んだ車。小中学生が背負う手提げにもなるランドセル等々、アイデアをこらした実用品がたくさん目についた。

遠くで演奏会があった夜は、話しこんでいるうちに午前一時、二時ころになることもあったが、主人は翌朝七時にはきちんと出勤していた。また日曜日に遊びすぎた高二、中一の姉弟は、夜おそくまで課題の学習をやっていた。のぞいて見ると、科学と数学をやっていたが、さすがにドイツは、かなり高い水準であると思われた。

◇親日的なドイツ

フランクフルトのいなか町ではあるが夢のように美しい二ーダエルレンバッハでは、前二回の訪米のときに劣らない温かいもてなしを受けた。六月十八日、町の公園で催された日独大交歓の日には、二月に行われるお祭りを私たちのために再現し、民族衣裳の人たちが、古い吹奏楽器によって行進したのである。公園には、多くの家族、近郷の合唱団、フランクフルト警察の男声合唱団、さては西ドイツの経済大臣一大蔵大臣一日本大使、多くの日本商社マンとその家族まで招集され、大交歓の場となった。その他どこへ行っても町ぐるみの温かいもてなしを受けた感激は忘れられない。

◇歴史に支えられたイタリア

数々の遺跡と、過去の栄光を物語る建物には驚くばかりである。特にいくつかの大聖堂で歌った感激は大きかった。しかし、国青が悪化しているこの国の広場には、昼も夜も無職の若者がたむろし、。パスポートと貴重品は盗まれないように絶えず注意する必要があったし、ベニス、フローレンス、ローマの町は汚れがひどかった。都市ごとに発行する紙幣が出回り、電話料金の盗難を防ぐため貨幣でなく専用のコインを使用する。産油国に近いのにガソリン代は一リットル百三十五円もする。小柄で黒髪黒い目の、どこか日本人に似ているこの国の人々が気の毒に思われた。政治や教育や国民性が現在のイタリアをつくったとすれば、対照的なドイツや日本の繁栄を考えるとき、しみじみ幸せに感じると同時に、自分の使命というものを再認識した次第であった。

(桑折町立醸芳中学校教諭)

まちをあげての

まちをあげての歓迎


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。