教育福島0034号(1978年(S53)09月)-025page

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ずいそう

労をいとわない心を

小林良夫

 

近ごろ折にふれて気になることがある。

 

近ごろ折にふれて気になることがある。

授業の際、学習課題や小テストなどいろいろなプリントを渡す。一番前の席の者にその列の人数をきき、数えて渡せばよいのだが、気ぜわしいときや、プリントが何枚もあるときは、うしろで調整するように、と指示して目分量で渡す。するときまって「ありませーん」という声が起こる。一番後席の者が立ち上って、まだ渡っていない級友に配ることをしない。注意するといかにもめんどうくさそうに、座ったままプリントをつまんであげる。行き渡らなかった者は不満いっぱいの表情でブスッとしてそれを受け取る。

はずんで始まるはずの授業が、なにかいやな不愉快な気分になることがしばしばである。

これもまた気になることであるが、テストの答案を受け取るときのダラダラした身のこなしはどうしたことであろうか。名前を呼ばれても返事をしない。片手でつまらなそうに受け取って顔もみずに席に戻る。注意すればやはり不満いっぱいの表情をつくる。女生徒のなかにもそういう顔つきがふえてきた。

私は決してむずかしいことを要求しようとは思わない。ただしかし、このごろの教室に流れるなんともいえぬこの怠惰な動作に、心配を覚えるのである。授業ばかりではない。ロングホームルームしかり、清掃しかりである。

どうしてこうなってしまったのであろうか?

放課後、一番後列にいる生徒に雑談ふうに聞いてみた。君はどうして立ち上って友達の分を配らないかと。彼の言うには、この狭い机、イスから立ち上るのがおっくうだ。教室のうしろも狭くて配って歩けない。自分のぶんを一枚とって、どこに行き渡っていないか、どっちに配るかなどを考えていたら、わからなくなってしまう、ということだった。

このさ事から言いたいことは次のようなことである。生徒たちにもう少し労を惜しまぬ身の軽い動作ができるよう、訓練したいと思う。次には級友に配るわずかの時間、教師から自分の答案を受け取るほんの一瞬に、自と他を思いやる心の余裕をもたせたい。(むろん最後列の者からプリントを配ってもらう前に、みずから立ち上って自分のぶんを受け取る身軽さも入る)。

授業時数確保の方針のもとに、授業中心の学校生活が行き渡り過ぎてはいないだろうか。全校での除草作業とか学校周辺の清掃など、高校では近ごろほとんど聞かれなくなった。また、こうしたことが計画されたとしても、それが抵抗なく、我々教師間に、また生徒側に受け入れられようとは思えない。学校からそういう作業は消えてしまった。そうしてひとまかせの、他人ごとにしてしまったのではないか。

テレビのスイッチすら機械がまわしてくれる。一枚一枚ローラーをまわして刷ったガリ版謄写版から、セットしてあとはスイッチひとつで印刷できることの進歩が、われわれからなにかを奪っていった気がする。その世相からいえば生徒のこの怠惰な姿、ものうい顔つきも、世相からくるのだと言えなくもない。

だがしかし、勤労を忘れ知育に偏した学校ではいけないのではないか。生徒にもうすこし身体を動かさせたい。そのなかから団体のなかにおける役割分担とか助け合いとかを学ばせたい。座ったきりになって動きたくない生徒を動かすことを考えたい。

今の生徒をみていると本当に心の余裕を失っている。懶惰の時間はあっても、充実のあるゆとりの時間がない。自と他を思いやる心もぜひもたせたいと思う。

(県立田村高等学校教諭)

 

 

 


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