教育福島0034号(1978年(S53)09月)-027page
ずいそう
一人歩きの園児をねがって
真船邦子
私が勤務する幼稚園は、昨年の四月に創立されたばかりの新しい幼稚園であり、河東第一小学校の二つの教室を使って併設されている。
開設のころは、広い部屋の中に新しい机と椅子が並び、遊戯室がないために輪なげとトランポリンがポツンと置いてあるくらいだった。
私の幼稚園は、五才児を対象にした一年保育であり、施設設備が整っていなかった上に、園児を導く立場にある私も、短大の保育科を出たばかりの未経験者であった。そのため、入園したばかりの園児たちに、どのように接したらよいか悩んでいるうちに、毎日が.凡々と過ぎていった。
そのうちに、春の遠足、運動会と大きな行事を控え、悩んでばかりもいられなくなり、大忙しの日々が続いた。やっと一息ついたのは、五月も半ばを過ぎたころだった。
そのころになると、ようやく園児たちも落ち着いてきて、のびのびと遊べるようになった。六月には、初めての参観日をもうけ、三十八名全員の父兄を前にして、いっせい指導をしたとき、足は床についていなかった。そのあと、約十日間かけて家庭訪問を実施し、七月には学期末懇談会と、すべてが初めての経験であった。今思うと顔から火が出るほどであるが、とても勉強になった。こんなときに、隣の組の渡部先生と、お互いに相談したり、なぐさめ合ったりできることが幸福に思えた。
それから三月までは早かった。一年間、ドジ先生と言われながら、泣いたり笑ったりしていっしょに過ごしてきたことを考えると、どうしても寂しさは隠せなかった。卒園式当日は、涙、涙で「一年間ついてきてくれてありがとう」「よい先生でなくてごめんなさい」と園児を送り出した後は、しばらく虚脱状態でなにをする気も起きなかった。
しかし、いつまでも感傷に浸っているわけにはいかなかった。すぐに、新しい子供たちが入園してきたからである。
それに、今年は自閉症児と診断されたK君が入園して、母親といっしょに通園してくるので、緊張の連続であった。K君は、母親の言うことはわかるのだが、私や友達とは視線も合わず、話しかけても聞こうとしない状態だった。私はなすすべもなく、毎日話しかけを繰り返すだけで、あとは母親にまかせっきりだった。そんなある日、K君の家に家庭訪問に行き、そのときK君は、私と視線を合わせただけでなく歌までうたってくれた。私は驚くとともに、ただうれしかった。毎日話しかけても視線も合わず、返事もかえってこないK君に、いつまでこんなことが続くのかとがっかりしていたときだけに、K君のこの進歩はうれしかった。今では毎朝、独特のアクセントで「おはようございます」と言って部屋に入ってくる。その姿を見るたびに、早く友達と遊べるようになって欲しい。母親の手から離れて五歳児らしい一人歩きのできる園児になってもらいたい。毎日K君につきっきりでがんばっている母親のためにも、そう願わずにはいられない。
このように、未熟ななりに精一杯毎日を過ごしてきたが、子供たちに教えられることがしばしばである。そうして私も成長していきたい。特に、今年度は、一人一人の園児を見つめながら指導計画を作成するとともに、指導技術の研修に努めたいと思っている。
とにかく、「無」から出発した幼稚園。「有」になるのはたやすいことではない。しかし、いつの日か物心両面の「有」を期待して、一日一日を大事に過ごしていきたいと思う。
(河東町立河東第一幼稚園教諭)
秋の遠足(りんご狩り)