教育福島0035号(1978年(S53)10月)-024page

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ずいそう

二年目を迎えて

 

古川邦子

 

古川邦子

 

つい昨日まで、あれほど暑かった夏の日が、めぐりくる自然の流れとともにめっきり涼しくなったこのごろである。空高く流れる雲のようすもすっかり秋らしい。

教師となって二年目、「先生」と呼ばれることにもようやく慣れてきた。

初めのころは、朝夕のあいさつを生徒と交わすにも顔が赤らむ思いだったのを考えると、図々しくさえなったのかも知れない。国語の教師らしからぬ言葉づかいが、つい、飛び出してしまったりする。清掃の時間などは、張り上げた自分の大声にびっくりして、思わずあたりを見回すこともしばしばである。そのせいだろうか、生徒がつけてくれるあだなは、ちっともうるわしくないものばかりになった。去年は、お世辞なども時々言われたりしたのだが−−。

去年の一年をどのようにして過ごしたのかと、改めて考えるとなかなか思い出すことができない。すべては、まるで昨日のことのような気がするのに、一方では逆に、忘れかけた昔の記憶をたどるように遠い感じがするのである。それだけ、無我夢中にやってきたのだと思う。また、毎日毎日に、強烈な印象を受けすぎていたからだと思う。それにしても、自己の未熟さをまざまざと思い知らされた日々であった。教師という仕事が、こんなにも、自分を映し出すものとは知らなかったのである。このような意味では、いまだ、厳しい日々が続いている。しかし、教師として生きる限り、この苦しみから解放される日は、あるいは、来ないのではないだろうか。

この二学期は、我が校にとって特に多忙である。十一月に、「教材提示のくふう、主として教育機器を利用して」をテーマとする研究発表会が、我が校において行われるのである。二年間の研究の仕上げや、当日の公開授業のために、研究協議会や各教科部会、推進委員会などの会議が、ひんぱんにもたれている。国語科部会でも、主任を囲んで真剣な話し合いが行われる。経験豊かな実力ある先生がたの中にあっては、話し合いの流れを見失わぬようにするのが精一杯であるが、教材に取り組む厳しさにいつもハッとさせられる。いくら背伸びをしてもかなわず、打ちひしがれることも多いが、こういう先生がたがそばにいてくださるのは、やはり心強い。悩み尽きない私のために、先生がたは、その忙しい時間を幾度となく割いてくださったのである。

 

授業風景

 

授業風景

 

正直に言って、現在の日々はつらい。だが、苦しみと喜びは常に背中合わせなのだ。この道を行った多くの先人が教師として生きた喜びを語っているのを、私は知っている。大勢の人間の形成期に出合い、彼らの人格の中に生き続けるという奥深い喜びを、聞くにつけ、読むにつけ、すばらしいと思わずにはいられない。ゆう久の時の流れの前では、一個の人間の存在など点にも充たない寂しいものである。だが、教師は、その寂しさから逃れることができる。己に続く人々がいることを信じられるのだから−。その人々を、現に造り出しているのだから−。私はそういう教師になりたい。そのためにこの職業を選んだのである。自己の指導の成果を生徒の中に見ることができる、そういう能力のある教師に私はなりたいと思う。

今夏、一通の葉書をもらった。「−−先生のおかげで志望の高校に入れました。」と、うれしい文面だが、残念ながら、私の方にはその心当たりがない。補習などで、なにほどのことをした覚えもない。こういう便りを心から喜べる教師に、早くなりたいと思う。それにつけても悩みの尽きない物思う秋である。

(福島市立第三中学校教諭)

 

 

 


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