教育福島0035号(1978年(S53)10月)-026page

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ずいそう

すばらしい教育

 

阿部 浩

 

阿部 浩

 

私が小学生のころ、近所に大きなお店があった。旧家の大きな商店だった。子供ながらその店の前を通ると威圧感をおぼえたものだった。

店には、店員のほかにお手伝いさんも何人かおり、子供の遊び道具までそろっている部屋がいくつかあった。

私は遊びに来るようにと何度か誘われたことがあったが、二度ぐらいしか訪れなかったように思う。今ではその家は跡かたもなく経営者も代わり、近代的な商店に生まれ変わってしまった。当時の面影をしのぶことさえもできなくなり、家人は一家離散の憂きめに会い今では行方知れずになっている。

さて、その旧家を倒産させた跡取り息子のことを思い出すのだが、現代の子供たちや若者たちの中には、その跡取り息子に似ている者が多くなってきているような気がしてならない。

現在、日本は高度経済成長が減速低成長となったといっても、世界第二の経済成長国といわれている。その繁栄の中で、日本の子供が「消費は美徳」といわれる環境の中で育っている。

学校のごみ捨て場をのぞいてみると、両方そろったズック靴や破れもしない運動帽が捨てられている。真新しい運動シャツが拾得物として届けられても名前も記入していない。持ち主もいっこうに申し出ないらしく陳列棚いっぱいに並べられている。先生に申し出てもらってくるよりは、新しいものを別に買ってもらうことになっている。親も平気で新品を買ってくれているのである。

あの旧家を倒産させた跡取り息子は頭の悪い方ではなかったし、なかなかの理論家で自分の主張はどこまでも押し通した。なによりも「気まま」で欲望をコントロールすることができなかった。一見上品で弱々しいところがありながら、他人の言葉に耳を傾けることができなかった。仕事をしたり、身体を動かすことは好きでなかったが、自分の興味のあることには熱中した。しかし、すぐあきて、最後までやり抜くことはなかった。こんな息子の性格と似た傾向が、現在の子供の中に多くみられるのではなかろうか。

また、ある親の話によると、小学生時代が一番親の言うことを聞いてまじめであり、中学生になると反抗期だからと、自分で宣言して親に文句を言う。高校生になると親を無視し、大学生になると親はおろおろして息子のきげんをとらねばならぬ。高い学費を出して教育をすればするほどおかしくなる。家庭教育、学校教育、社会教育は何をやってきたのだと慨嘆していた。なるほど一面を見ればその親の言う通りかもしれない。

すばらしい教育とは、小学校よりは中学校、中学校よりは高等学校と知識のつみあげはもちろん、人間的にも一歩一歩前進する教育である。そこには一人一人の子供が生かされ、教育活動に生き生きと真剣に取り組む姿がある。子供の成長のためにしった激励しながらも温かく慈愛をもって導く教師がいる。その背後には、学校を、信頼のきずなで強く支持してくれる親がある。また、よりよい教育をやりやすくする社会があり、行政がある。

こんなことを思い、現在の学校教育に欠けるのはなんだろうかと考えているとき、県の御配慮により、今回会津坂下町に、県立少年自然の家の建設が決定した。全くありがたいことだった。学校教育や家庭教育の中では、なかなか達成できない困難な部分をこの少年自然の家が補ってくれることを期待するからである。この施設は、雄大な自然の中で少年たちが団体生活をし、自然と親しみ、多くの友達との交流をとおして、規律、友愛、協力の精神と豊かな情操を養い、たくましく創造力と実践力を身につけさせることをねらいとしている。一日も早く完成していただくため、私どもも全面的に協力し、そしてできるだけ多くの学校に利用していただきたい。すばらしい学校教育とそれを補うこのような施設の教育からは、あの旧家を倒産させたような子供は育たないと思う。

我が子の教育に期待する世の親の願望にこたえ「こんなすばらしい子供に成育しました。本当にありがたいことだ。」と喜ばれる教育を目指したい。

自分の非力にむちうち、残された期間を懸命に努めたいと考えている今日このごろである。

(会津坂下町教育委員会教育長)

 

 

 


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