教育福島0035号(1978年(S53)10月)-028page

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ずいそう

くじけない心

 

佐原英夫

 

佐原英夫

 

私は、生まれながらに両手に機能障害を持っている。今思うと、物心つくころからなにをするにも不自由とたたかいながらくふうを重ねて、知らず知らずのうちに、日常生活が身についてきた。針仕事をしたり、炊事や洗たくをする母のそばで、なんでもさせたという母の思い出の言葉が身にしみる。

私は、小学校に一年遅れて入学している。それは東北医大に通院したり入院したためである。障害を軽くして入学させようとの両親の考えからであったと思う。しかし、医学的結果は芳しくなかったが、病院生活の中で多くの人の愛情をうけたりつらい手術に耐えたことが、自分にプラスになったと思う。

生徒が筆記体を練習したり、作品を作っている姿を見ると、自分をかえりみるときがある。鉛筆をもって文字が書ける自分、ソロバンを一本指でやれる自分が不思議でならない。工作で「あみわたし」の作業があった。授業中には片手だけでできる部分をつくり、針金をまげてあんでいく部分は家で手と足を使って作った。「なんでもさせよう」「なんでもさせた」恩師や両親の思いやりは、自分には困難になり涙を流したときもあったが、それを乗り越えていかなければならない精神を育ててくれた。

両親は、自分を育てる苦労についてこれまでなかなか口に出さなかったし、自分も聞かなかった。この随想を書くために、初めて自分の障害について話し合った。両親は、私が知恵づくにつれ心に誓ったこととして、いくつか話してくれた。それは、はじめに、障害を乗り越えて自立していける強い意志と明るい生活のできる子にしたい。そして、この世に生を受けたからには、世のためになることをできる人間にしたい。つぎに、自分のことは自分でやる力をつけること、「お前は障害がある」ということはひとことも言うまい。お世話になる多くの人たちには常に感謝を忘れないこと。報恩の心を育てたいことであった。自分の精神力はまだまだ未熟であることを痛感した。

私は、不自由だと思うと、不安感がつきまとうので、できるだけ仕事に熱中するようにつとめてきた。私の両手は思うように動かないので、運動技能はゼロに近い。しかし、卓球だけはなんとかできる。相手の受け易いところにボールをやることだけである。この卓球には、私の学生時代から教員生活における不安感を解消する一つの方法になっている。何か一つのことをくじけずにやりとげることが、なによりもたいせつなことを、今までの人生経験から強く感じている。

放課後の練習の中で、すぐに技を覚えてしまう者、いつも真剣なまなざしでボールに向かっているのだが技の向上しない者などさまざまである。卓球部の顧問として生徒を指導するときに、「技能は問題ではない。どんなにつらく苦しいときも、それにくじけない強い精神力をもって障害を乗り越えることだ」と言い聞かせている。また一度入部したら退部しないということである。先日、部員の一人が退部したいといってきた。理由を聞いても話さないので、本人の良い面を話して退部を認めなかった。

私は今、自分に対して卓球を可能にしてくれた恩師、温かい愛のむちを与えてくれた恩師の姿が浮んでくるとき感謝の気持ちでいっぱいである。

「目には心を…心には行動を…」という言葉があるが、教師は、生徒の内にある可能性を引き出し、心身ともにくじけない人間育成のために、心ある観察を通して温かい援助の手をさしのべていかねばならないだろう。

(原町市立石神中学校教諭)

 

「継続は力なり」でがんばろう

 

「継続は力なり」でがんばろう

 

 

 


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