教育福島0035号(1978年(S53)10月)-040page

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図書館コーナー

「読書」についての本(その一)

 

「読書の必要性はわかるが、いざ他人や子供たちにそれをすすめようとすると、どうもうまくいかない」「なぜ本を読まなければならないのかと真正面から問われると、具体的な説明に詰まってしまう」等々のことをよく耳にする。

実際、読書の効用らしきことをある程度ら列して話すことはできても、説明を受けた人は本当に納得したのだろうかという自信のなさは残るものである。

「読書」というものの抽象性からくる説明の困難さ、一般論の成り立ちにくい性格からくる説得性のなさは多くの人が経験していることだろう。

また一方には読書というものが占めていた社会的認識のがん迷さ、つまり異常に道学的・高踏的なイメージか、怠け者やヒマ人のすることといった嘲笑的な見方が支配的であった社会では、真剣に読書を論ずるなどまさに一般的ではなかったのかもしれない。

従って、このような歴史的背景をもつ私たちに″自信のなさ″がつきまとうことは無理からぬことであるが、読書に対する関心が今日ほど高まっているときもないのである。読書についての根本から再考すべきときであろう。

今回から二回に分けて、その再考のための参考となる文献のいくつかを紹介しよう。

ところで、日本読書学会の主宰者であられた阪本一郎氏らの編さんになる『現代読書指導事典』(第一法規)によれば、一口に「読書論」とはいっても1)いかに読書すべきか(読書方法)2)いかなる書籍を読むべきか(読書資料の選択)3)読書に関する知識・思考思索(読書論・読書研究)を内包してそれぞれの時代・社会を背景に展開してきたものであり、多様にわたるのであるが、ここでは一応それらの相違は意識におくにとどめ、読書論の名著といわれるものを、時代区分、洋の東西を問わずアトランダムに列挙してみよう。いろいろな論に接し、自分なりの分類を試みることも「読書論」形成の一つの道であるから。

 

○『読書について』ショウペンハウエル著(岩波書店)

限られた時間内で読書をし、これを消化するために必要な要件を示唆深く論じる。読書論の古典中の古典とも称すべきもので、おおよそ読書を論じる際には必ずといってよいほど引用される文献である。

西洋の読書論の古典といえば、わが国にも多大なる影響を与えた、ニーチェの『この人を見よ』、モンテーニュの『随想論』、ジョン・ラスキン『胡麻と百合』、フランシス・ベーコン『ベーコン随筆集』、モーティマー・J・アドラー『本を如何に読むべきか』等々も必読の文献であろうか。

○『読書論』小泉信三著(岩波書店)

古典を読むことの重要性を強調し、読書に卑近の実利を求めるべきではないとする。著者の壮大な読書遍歴を背景に、何をいかに読むべきかから始めて、読書に関するあらゆる問題について、懇切に述べる。ややエリート向けとの批判もあるが、日本の読書論に関する最もすぐれた文献の一つといえるだろう。

 

明治以降の文学者・文化人は、その著作において、必ずといっていいほど「読書論」について発言している。先の小泉と同じように、体験的読書論を古典主義とおりまぜての立論がその大部分である。例えば阿部次郎の「読書は体験を予想する。みずから真剣に生活し、真剣に思索する人にとってのみ読書は効果がある」(『人格主義』)という論はその典型であろう。この系譜に属する読書論は枚挙にいとまがないほど多いが、その中の著名なもののみを列挙すれば、新渡戸稲造『余が実験せる読書法』、遠藤隆吉『読書法』、安倍能成の読書論、さらに亀井勝一郎の『読書に関する七つの意見』等々である。また、自伝的読書論の中には、読書の人間形成におよぼす影響をとりあげ論じているものとして、清水幾太郎の『私の読書と人生』(要書房)、河合栄次郎の『読書の意義』同『読書と人生』(社会思想社)、田中菊雄『現代読書法』(柁谷書院)等々が必読書である。

しかしこれらはいずれも「読書人」を対象とした論であった。次回はもっと一般人向きの読書論を紹介しよう。

 

 

 


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