教育福島0036号(1978年(S53)11月)-026page

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ずいそう

ひとがら

松田安子

 

りっぱな人柄に支えられてきたからであると、心から感謝しているものである。

 

「十人十色」それはまぎれもない十色の人柄である。体育の女教師として二十三年もの年月を静かにふりかえってみるとき、今日もこうして生徒とともに「輪」を持って求める心を一つにすることができるのも、わたしをとりまいてくれた数々の人々のりっぱな人柄に支えられてきたからであると、心から感謝しているものである。

力のないわたくしが教師として支えられてきたもの、書物にも増してわたしを導びき励ましてくれたもの、それが「人柄」であったと思うとき、教育の中に人柄が大きな力となって現われることを考えないわけにはいかない。

幼児が人になつくとき、それは知識でもなく学位でもない。幼児は、その求める心を知るあふれでるやさしい人柄になつく。生徒が心から学びとるとき、それは教師の人柄にひかれて学びとることが多い。わたしが学び得たもの、それは毎日の生活の中で敬愛の心を持つ人々の人柄からであった。

よく耳にする寂しい言葉に、「先生をみて態度を変える」「先生によって態度が変わる」ということがあるが、生徒の心をいくつにも変える指導はしていないのに、なにかがそうさせる。生徒だけではない。大人のわたしたちにもそのような体験をお持ちのかたがたも多いことと思うが、それは決して二重人格でも、なんでもない。心をそのように変えてしまうもの、そこに人柄の違いを感じるのである。だとすれば、十色の人柄は、そのまま十色として教育の中に生きていてよいわけでもないことがわかる。個性としてはき違えられ、自分自身の確かなものを得ないままに十色の教育が進められているこのごろ、果たして望ましい人柄を求めての教育が成立するであろうか。

一方、十色の人柄を変えることはできないが、十色の人柄から望ましい人柄を学びとることができよう。その学ぶ心がたいせつであるという、ごくあたりまえのことをいまさらのように痛感しているものである。書物を読んでりっぱに並べたてても、その書物の内容をその人柄によって相手にわからせたり、わからせなかったりするものである。どんなに世の中が変わっても人の心を変えることはできない。しかし、変えることのできない心をゆり動かし変えていくものがあるとすれば、それはやっぱりりっぱな人柄であると思う。わたしは生徒に望むものをいつも自分に望んでみる。力のないわたしが望むことは無理なのだと知ったとき、ひそかに教師としての寂しさを感じる。そんなときわたしは再びわたしをとりまいてくれるりっぱな人柄を見つめ学ぶことにしている。

勇気がわいてくるとき、それは体験を通し苦しみながら自分のものとして持っているときである。勇気を持つために学ばなければいけない。学ぶために与えてくれた仕事に喜びを感じなければいけない。そして苦しみまとめあげ、助言を仰いで、修正し、自分のもの、確かなものにするために愚痴を言いながら処理する今日一日に、心から感謝をしなければならないと思う。

人柄--それは生まれつき持っているものではない。誰かがつくってくれるものでもない。自分で作り上げるものであろう。学ぶ心の目を開くことによってりっぱな人柄は作り出されるものであると思う。子らよ、輪をまっすぐに上げたとき、身体は輪に支えられて最高に伸びる。輪が今日も曲っていてもいい。まっすぐに上がるために学ぶ心を失なわなければ。

(泉崎村立泉崎中学校教諭)

 

輪をもって心を一つに

 

 

 

 


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