教育福島0036号(1978年(S53)11月)-028page
ずいそう
図書館でのひととき
遠藤時夫
HRTとして三年生を卒業させた今春、私の所属部は、進路指導部から図書館に変わった。図書館は三階にあり、これまでの大きな職員室のちょうど真上にある。さて整理引っ越しのときは、同僚間で軽口を飛ばしあうときでもある。
--いよいよ雲の上人になりましたネ。
--なあに、小部屋に左遷といったところじゃないですか、ねえ先生。
--ハハハ、ときには下界に降りて来ますよ。その節は、雲の上人として待遇して下さい。
同じ校内とはいえ、移ったばかりのころはやはり落ち着かない。でも、しばらくぶりでせいとんされた席に身を置くと、気分は一新され、意欲もわいてくる感じだ。そして、生意気にも、ほう芽してくる夢を楽しんだりもする。
本校は、田んぼの中に新校舎が落成したばかりだ。広い敷地に植えられた樹木は小さくまだ殺風景だ。図書館の蔵書数も、満足すべきものとはいえないだろう。だが、やがてそれらが成長、繁茂したとき、図書館も充実し、静かな葉のさざめきを聴きながらいきいきと学ぶ生徒と教師がいる堂々たる学園がここにはある…。そう思いやるひととき。
私の新任校は、只見川ぞいのM町にある定時制高校だった。(分校であったが私達は、M高校と呼んでいた。今は廃校になってしまった。)川に背を向けて高台に建つ、林に囲まれた、赤いトタン屋根の小さな校舎は、遠くから眺めたとき、たいへんエキゾチックだった。この二階北東の一ぐうに図書室はあった。私が転任するころになって、やっと筑摩の現代日本文学全集全巻を入れた記憶があるから、定通法によるもの以外で(一冊でも紛失してはだめといわれた)調べものをしたり、楽しく読める本などほとんどなかったように思う。だがら、初代校長でもあった会津短大の山内為之輔先生から、その蔵書の一部が寄贈されたときは、私はひどく感激した。「インキが凍り、手が寒さで利かなく、筆記が出来なく」(山内先生「M高校創立当時」)なったような、ほとんど吹きっさらし状態の中で授業を始めた。終戦直後の高校草創期の先生の情熱が、今なおこの学校に、しかも図書室に注がれているなんて。
もう十六、七年も前のことだ。全校ワラビ採りなどの奉仕作業収益で、生徒会野球グローブやスキー等を買いそろえていく学校で、自分らが学校もつくっているという意識は、まだ強かったと思う。しかし、一般的には生徒の読書意欲の方は高いとは思えなかった。(私は、読書に特別な価値づけをしているのではさらさらないこともお断りしておく。)しかし、もっと学校に本があればなあと残念がる生徒も何人かいた。あるとき、文庫本の芥川作品を、クラス全員に買わせ読ませたことがあった。そのとき、たいへん喜んだ生徒もいた。町にはごく小さな本屋さんが一軒あったが、それに自信を得て、お願いして、文庫本を数十冊、店の一角に並べていただいたときはうれしかった。私自身の蔵書も少なかったから、急な調べもののときは私はたいていお手上げだった。
現在は、どの学校もこれよりははるかによくなっているのだろう。が一部では、学校基本図書の不足を嘆くところがまだあるように思う。そういうところも近い将来、県立の場合は県の絶大な援助のもと、充実した図書館となり、そこが学校の学習センターとしての機能をぞんぶんに発揮して、生徒の豊かな知識を培うとともに、夢をかきたてる場となっているだろうことを夢みる。地理的に恵まれていなければなおさらのこと、そこの学校図書館は、どこにも負けないほど充実していなければならないだろう。
ともあれ、人々がよりよく生きるために教育があるのであろうことを思うとき、たとえ、それがどんなに淡く、小さいものであろうとも、夢をたいせつにして、まずは私自身誠実に生きるほかはあるまい。
(福島県立原町高等学校教諭)