教育福島0037号(1978年(S53)12月)-013page
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主な施設別の利用状況をみると大ホールでの催し物が百九回、小ホールが百五十回で、各その半数近くが音楽会となっており、式典、大会がこれに続いている。一方、美術博物館の展示室の利用状況は二階、三階合わせて美術展の回数は三十二回、使用日数は延べ三百五十一日に及び、美術博物館本来の業務である常設展示は、十二月から三月までの最も条件の悪い冬場にしかできないという極限状態に追いこまれている。
なお、当センターでは消防法に基づく防災工事のため、文化会館、美術博物館を十一月五日から五十四年三月末まで約五か月間休館することとなった。
文化財の保護
一、文化財の指定
「国指定」
重要文化財
古文書
白河結城家文書(三十通) 二巻
附四月八日佐々宗淳書状 一巻
所在地 福島県須賀川市本町八十一番地
所有者 相楽定邦
陸奥国白河(福島県白河)の豪族、結城氏の文書で、南朝方として、関城にいた北畠親房(一二九三〜一三五四年)、関係文書が中心を占める。東国における南朝方の動向を伝えた根本資料として、わが国の歴史上価値が高い。北畠親房の自筆文書七通を納める。
考古資料
岩代米山寺経(きょう)塚出土品
(陶製甕一口、銅製経筒一口、以上第一経塚出土)
(陶製甕残欠共二口分以上第二経塚出土)
(陶製外筒一口、承安元年八月二八日僧行祐等施入在銘銅経筒一口、銅鏡残欠一個、鍔(つば)の残欠一個以上第三経塚出土)
(陶製甕残欠一口分以上第五経塚出土)
(附)刀残欠、鉄鏃(ぞく)残欠、陶器片等伴出物一切
所在地 福島県須賀川市西川字坂ノ上
所有者 日枝神社
明治十七年四月八日、日枝神社の裏山つづきの山林中にある経塚群中のひとつから出土した銅経筒及び承安元年銘を有する陶製外筒等は、昭和十一年に重要文化財に指定されたが、発掘当時はなおこの他に刀子(とうす)鉄鏃等多数あったという。
その後、試掘調査の結果、八基の経塚が確認され、新たに確認された経塚群の一部より出土したものを追加指定するとともに名称の変更を行うものである。
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国指定米山寺経塚出土品
重要無形民俗文化財
相馬野馬追
所在地 相馬市、原町市、相馬郡新地町、鹿島町、小高町及び飯舘村並びに双葉郡浪江町、双葉町、大熊町及び葛尾村
保護団体 相馬野馬追保存会
相馬野馬追は、伝説では相馬氏の祖平将門が下総国小金原に野馬を放ち、敵と見立てて、これを追ったことに始まるという。
放牧が盛んであった時代の風習をもとに武士姿の騎馬戦による競技で、よくこの地方の民俗を反映しており、特に野馬懸はわが国民の基盤的な生活文化の特色を示すものとして価値がある。
「県指定」
重要文化財
建造物
五十島家住宅 一棟
所在地 大沼郡金山町大字沼沢字
安良田一一七三番地
所有者 五十島吉治
所有者の五十島家が代々農業を営む住居として使用してきたもので、区分上は農民住居で、かつ主屋である。
五十島家のここへの土着の時期や家系、その近世における経営の程度などはほとんど明らかでない。
この住居は江戸時代の建設以来、間仕切の改造や背面、中門部分の増築など若干の変更を経ているが、主屋の原形は現在もなおじゅうぶん判明する。いま、ほぼ原形にもどすことができた略復原平面を基として考察すると、住居の規模は桁(けた)行九・〇間、梁(はり)行三・五間の直家に間口二・五間、出二・五間のうまや中門が付されたものとなる。直家部分は「なかざしき」列を加えて四室列となり、規模・室列ともこの地方江戸時代の通常の農民層のものとしては、やや大きく変化もみえる。
この住居の特色を要約的にあげるならば、「なかざしき」列を含めて完全に四つ間型であり、うまやをすべて中門に収容した完全なうまや中門の形態であり、「ちゃのま」「なかのへや」あた
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