教育福島0037号(1978年(S53)12月)-014page
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りまで板敷ではなかった可能性も大きく、また「おくざしき」にも「とこ」を備えず、その前面開口も相当古い形に復原されることなどをあげることができる。
建設年代を示す資料などは発見されていないが、編年比較上、少なくとも十八世紀半ば以前に位置づけられるもので、会津うまや中門造の成立との関連でこの住居の意義は大きいと考えられる。
彫刻
木造地蔵菩薩坐像 一躯
所在地 東白川郡古殿町大字田口字久保田二九九番地
所有者 西光寺
像高四十一センチメートル。南北朝時代作。
西光寺本尊の延命地蔵は、胎内に「大たんなん たくち西光寺 応安七年八月二十八日仏しんちふほうき乗円」という銘がある。すなわち大檀那田口西光寺、応安七年八月二十八日(一三七四年)、仏師治郎法橋乗円という意味である。同、西光寺の阿弥陀堂本尊の宝冠阿弥陀(応安四年、乗円銘)造顕三年後にあたる。
ヒノキ材、寄木造、玉眼嵌(かん)入、角ばった面貌と横に締まった大きな口唇が特徴的である。右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を捧げる通例の延命地蔵の形をなすが、通肩から腹部、下肢に流れる衣文線は前作の阿弥陀如来に近く、ことに背面の彫刻はそっくりである。像が小型化し、かつ型式化が進む時代すう勢をよく示しており、乗円仏の西会津町真福寺の地蔵(康安二年銘、一三六二年)以降の変遷を見る上でも貴重な資料である。
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県指定 木造地蔵菩薩坐像(古殿町)
木造地蔵菩薩坐像 一躯
所在地 河沼郡湯川村大字田川字サエン乙五九の一
所有者 禅定寺
像高七十八センチメートル。ヒノキ材の寄木造で体部は六材を使用。膝(ひざ)前を接ぎ合わせ、玉眼を嵌入する本格的彫像である。衣の上に袈裟(けさ)を着用、左手に宝珠、右手に錫杖をとり、安坐する形になるが、通肩から下半身をおおって流れる衣文の彫刻、髪際線の著しいカーブ、耳朶(たぼ)の厚味と張りは、鎌倉中期から末期通有のものである。足の柔かな表現もみごとで、親指先を動的にたてる自然さも禅的し好をあらわす。頭部の鉢がやや開き、膝の部分の表現が複雑化してはいるが、京都六波羅密寺の地蔵に類似し、慶派の影響をうけている。
左手先、錫杖を失い、足先を損傷しているが、鎌倉末期を下らない作である。県内の地蔵菩薩の坐像ではもっとも古い。
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県指定 木造地蔵菩薩坐像(湯川村)
書跡
八槻文書 二百四十二点
所在地 東白川郡棚倉町大字八槻字大宮六六
所有者 八槻淳良
八槻文書(二百四十二点)は、古来の名社、八槻の都々古別神社の別当大善院(八槻氏)に伝来した文書であって、応安三年(一三七〇年)刑部阿闍梨明尊檀那名簿、至徳元年(一三八四年)良朝二所態野檀那譲状をはじめとする中世文書、及び近世文書からなる膨大な文書群のうちの中世文書及びこれに準ずべき関連近世文書である。
八槻(近津)別当大善院は、中世後期には白河城主結城白川氏をはじめ、白河領の武士、農民らに対する先達職を掌握し、白河領の人々を先導して連年上方にのぼり、その一行は七百人に及んだことがあり、八槻文書にはこの先達職にかかわる檀那譲状、あるいは大善院を統轄した京都聖護院からの文書などが多く見られる。また、近津宮ともよばれた都々古別神社は、結城白川氏のあつく信仰するところとなり、これを示す結城白川氏の寄進状などが含まれている。戦国末期には会津蘆名氏の進出を反映して蘆名盛氏と結城白川晴綱の連署状がみえるが、その後は常陸佐竹氏の白河掌握によって佐竹氏の発給文書が現われ、中世終末の天正末年に至って豊臣秀吉朱印状が現われる。
以上、八槻文書は中世奥羽の武士領主と農民の信仰と生活のあり方、及び政治情勢を明らかにする重要な史料であり、これが中世八槻別当の面影を今に伝える八槻氏宅にそのまま襲蔵されていることは、その価値を更に高いものとしている。
重要有形民俗文化財
上行合(かみゆきあい)人形
所有者 郡山市田村町上行合亀河
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