教育福島0037号(1978年(S53)12月)-035page
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教育随想
涙
佐藤文子
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教室の窓から、暮れなずむ山の端を見ながら考えたことども、二つ三つ。それは、教職に就いて今までに流した数えきれない「涙」についてである。
涙その一。
新卒のころ受け持った三年生に、無気力で欠席がちなYがいた。家庭訪問の結果、農家の労働力として就学前に貰われてきたこと、家族は中三まで学校にやることをもったいないと考えていること、夜尿の癖があるため藁(わら)小屋に寝せられていること、などがわかった。義務教育の意義や健康管理について懸命に話したが、むだだった。翌日、学校前の田でどろだらけで働くYを見たとき、思わず飛び出し養父に懇願した。せめて午前中だけでも勉強させてほしい…と。次の日から、授業はもちろん、放課後の語らいやクラブ活動にもまざるようになった代わりに「弁当なし」というお返しを貰った。あきれた私は二食の弁当で出勤した。楽しい日が続き、秋の取り入れが始まったころ、Yは若松で住み込み店員している兄の所に突然追い出された。学校へ行きたいなら出て行けとのことで。未成年の兄も困り養家に戻した。勉強のおもしろさがわかりかけてきたYは、野良着のまま授業に出て、再び追い出されてしまった。兄はわび状を持たせて帰したが、三日たっても戻らず、大騒ぎになった。四日目の夜、戸締まりしようとした玄関先に「先生!!」と泣きながら立っていたのは、ボロボロの衣服をまとったYだった。若松から野沢まで、野宿しながら幾つかのパンをかじり、土ぼこりにまみれて歩き続けてきたそのけなげな十五歳の姿に、滂沱(ぼうだ)と流した涙。忘れられない。その後は私宅から通い卒業後は大工として励み、時折二児を連れて里帰りする?昨今である。
涙その二。
次の勤務校で担任した級にRがいた。後妻に入った働き者の母親は、先妻の子たちに気がねしながら、Rを育てているという家庭状況。中三になるとき、私は転任し、Rたちは高校へ。やがてS市で会社勤めをし、母思いの若者に成人した。三年後K市に転勤が決まり、その送別会の帰途、酔ったやくざに絡(から)まれた友人を助けようとして、誤って相手を傷つけてしまった。翌朝出血多量で亡くなり、Rは逮捕。これをニュースで知った私は血が凍る思いがした。とっさに「Rを助けよう、前途ある若者なんだから…」。と思い、警察署、検察庁、拘置所と駆けずり回った。M検事に「中二の担任だったのか。Rの最終学校の先生かと思った。」と言われ親切に手配してもらった。生まれて初めて拘置所の門をくぐり、金網越しにRと会った。わずか数日でやつれたRの姿に、涙が先に立ってうまく話せなかった。相手への見舞い、弁護士、母親のことなど話し、下着類を差し入れ、タクシーで相手方に行き、焼香してきた。Rの同級のAと連絡をとり、減刑嘆願書を作った。地元はもちろん、東京まで署名の輪を広げ、冬休みのほとんどはこれに使った。S校長は眼鏡の奥の柔和な目をうるませ、励ましてくれた。やがて裁判。判決。当日は校務の都合で裁判所に行けず平静を装って授業。Aからの電話。執行猶予三年だけ。受話器が涙で滑った。その後ある知人に頼んだ職場で主任となって今、活躍中。昨夜の電話では娘の成績を気にする甘い父親ぶり…。
涙その三。
先日、ささいな事で心乱す事が起こり、教頭と話していたときうつむいていた私を見た生徒たちが「しかられている」と勘違いし、教室で泣いていた。その姿に思わず流した熱い涙。忘れまい。この子らの優しい心根を。この子たちのために熱い涙を流せる感性をいつまでも持っていられる教師でありたいと。
(北塩原村立大塩中学校教諭)
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小春日和の教室で
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