教育福島0037号(1978年(S53)12月)-036page
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教育随想
二年目の新米監督
鈴木文子
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「ありがとうございましたっ!!」
午後六時半。練習終了のあいさつが体育館に響く。一日の中で一番ホッとする一瞬である。女子バレー部の監督を任されて早一年半余り。専門は国語なのだが、振り返ると思い出の大半がバレー部のことで占められているといえる。
どれも皆苦い失敗の思い出ばかりだが、実はその苦さこそ今の私を支えているのである。
本当に多くのものを、私は部活動から学んできたのだ。
昨年の春、新任早々の職員会議で決定した私のバレー部顧問。それは校長の誤解と私の早とちりとが生んだ恐ろしい配役ミスであった。なにしろ生来の運動音痴で、高校のときなぞ単に動かずに済むという理由だけで弓道部を選んだ私である。
そういう私と、八人の勝気でがんばり屋の二年生と五人の怠慢な一年生とでバレー部はスタートしたのだが、案の定、初めから失敗の連続であった。最初の公式戦では生徒よりあがってしまい、規則では二回までのタイムを三回も要求したり、選手交代を別の選手としたり、常識では考えられぬことを次々としでかしたのだ。私も恥ずかしかったが、それ以上に選手はどんなに心細かったろうと、今思ってもかわいそうでならない。
だが、まだそうして笑って過ごせる失敗をしているうちはよかったのである。そのうち部員との間に、少しずつ溝ができてきた。特に原因があるのではないが、練習にでる度に部員のいらだちが伝わってくる。ときには返事さえしなくなる。そんなことが時々起こるようになったのだ。
部員は皆、妹のようにかわいいのに、理由もわからないまま反抗されるのはつらいものだった。思いきって話しあってみるとそのときはいちおうなにがしかの解決を得て明るいふんい気を取り戻すのだが一か月もするとまた別のことで、同じようなかっとうが繰り返される。つまり、根本的に少しも心が通じあっていないのだ。
私はその原因を、自分が彼女たちと同性であることやバレーができないこと、性格があわないこと等にあるのだとして、心の煩もんを抱えこんだまま半ばあきらめようとしていた。バレーのことに授業の心配などが重なって、とても疲れてもいた。
そんなときである。また例の集団低気圧。それも大きいのが起こった。私はこの際大切開手術をしようと、部員と徹底的に話しあった。そのときである、それまで黙々と練習のコーチ役をしてきた部長がこんなことを一言ったのだ。
「おれたちは、先生にバレー教えて欲しいなんて無理を望んでんじゃねです。ただもっとおれたちの気持をわかって貰いてんです。チームの精神的な支えでいてもらいてんです。んだけど先生は強くなること中心に考えて、みんなの気持わかってくんねえから--」
そのときの印象は忘れることができない。確かに私は未熟な自分をも含めて、なんとかチームを強くとばかり考えて焦っていた。試合での選手の起用も練習法の改善も、少しでも試合に有利なようにと考えてのことであり、部員もそれは納得していると思っていた。しかし実は、彼女らの中に割りきれぬものが少しずつ蓄積していたのである。
部のチームワークにまでそれが影響していたことを、自分の思いこみだけにとらわれていた私は少しも気づかなかったのだ。無神経さを痛切に反省させられると同時に、教師としてのあり方がやっと少し見えてきたのもそのときからである。バレー部も今は代替りしてかつての怠慢五人が見違えるほどしっかりして部の中心となっている。運動音痴の私にとってバレー部は今でも重荷だが、その重さ以上のたいせつななにかを私は十三人の部員とともに学んでいるのだと思うこのごろである。
(福島県立只見高等学校教諭)
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春の30キロ強歩大会で
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