教育福島0037号(1978年(S53)12月)-037page

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教育随想

 

常に生徒とともにあれ

佐藤佐太郎

 

のは、そこに勤務する教師自身にも大きな影響を与えるものであると私は思う。

 

どの学校にも、長い年月を経て形成されてきたその学校の特色がある。この特色というものは、そこに勤務する教師自身にも大きな影響を与えるものであると私は思う。

私が初めて赴任した学校は、常磐炭鉱がまだ盛んなときに、山の斜面をうまく利用して建てた学校で、校舎がいくつにも分かれているため、授業に行くたびに廊下を間違えては生徒に笑われたものである。

どの先生がたも実に勉強するのを見て「学校の先生というのは、たいへんな職業だなあ。」と、ため息をついたののも、そのころである。

先生がたに少しでも追いつこうと、私も勇んで授業に出かけてみるのだが、担任したばかりの中学一年生から「先生の授業は、小学校の先生より下手くそだ。」などと、手きびしく指摘されるしまつで、がっくりしたり、くやしがったりしたものである。

また、こんなこともあった。それはほとんど毎日のように、職員室で話題になるほど、問題の生徒と見られていたT君が、集団就職をする二日前に、友達二人を連れて、私の住んでいたアパートに遊びに来たことである。

それまでは、廊下ですれ違うときに「先生、いま何時だい?」、と声を掛けてくる程度で、学年が違うため、それほど親しく話したこともなかった生徒である。

結局、せまい間借りの部屋で、ひと晩、あれこれ話し合ったのであるが、いわば「落ちこぼれ」といわれてきたT君らの、学校批判、教師批判には、まさに痛烈なものがあった。

それは、成績のいい生徒だけをかわいがる先生への不満、中二までの担任が女の先生であったことへの不満、悪いことをしたときは、みんなと同じようにしっ責してもらいたかったという不満(父親が暴力団の幹部だったので、指導するのを恐れたのだろうか。)などいま考えてみても、胸に突き刺さるような批判ばかりであった。

その夜は、三人とも泊まり、朝食のあとかたづけをするとき、「こんなことをするのは、生まれて初めてだ。」といいながら、みずから流しに立ったT君の姿を、なぜかいまも忘れることができない。

次に赴任したところは、「もりあおがえると草野心平先生と天山文庫」で有名な村の学校であった。

どの村の人も、実に人情がこまやかで、しかも「未来を創造する」子供たちのためには、村の財政を惜しまない教育村であった。

「村が、これだけ期待しているのだから、われわれもそれにこたえなければならない。」という姿勢が、学校の中にもできあがっていた。このような地域社会と学校とのすばらしい連帯感のほかに、特に私が心を打たれたのは、十数キロもあるところから、雨の日も雪の日も、黙々と登校してくる生徒たちの姿である。

真剣に生きる生徒たちを見ていると「教育に辺地はない。」という言葉を膚で感じるものがあった。

これまで、なにをするにしても、先生がたの御助言をいただきながら生徒と接してきた中で、いまも心に強く残っているのは、「教師は、常に生徒とともにあれ。」ということばである。

ややもすると、生徒があって自分があることを忘れ、自分自身の生活しか見えなくなるとき、私は自分自身への警句として、このことばを思い起こすのである。

(いわき市立上遠野中学校教諭)

 

一人一人の発言をたいせつに

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