教育福島0038号(1979年(S54)01月)-022page

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ずいそう

初めての吹奏楽指導

菅野有子

 

年前の四月に味わった戸惑いとろうばいを生がい忘れることはできないだろう。

 

私は、四年前の四月に味わった戸惑いとろうばいを生がい忘れることはできないだろう。

新しく転動してきた学校に、まさか吹奏楽の楽器があろうとは思わなかった。今まで十数年の教員生活を送ったが、一度も吹奏楽のある学校に勤務したことがなかったのである。赴任した第一日目に管楽器の音のする教室へ行ってみると、雑然とした音楽室で三名の生徒が楽器を吹いていた。その光景をみて、これからこの生徒たちをどう指導したらよいか、戸惑いを感じざるを得なかった。

二十名足らずの小編成で、週一時間のクラブの練習であったが、約半数は運動部とかけもちである。ところが、運動部に入っていない生徒だけが、放課後、自主的に練習しているうちに、どうしても部に昇格させてほしいと、毎日のように熱心に頼みに来るのだった。その姿をみて私は、「指導することができないからいやだ。」とは、どうしてもいえず顧問を引き受けざるを得なかった。

そのときの部員は、わずか十七名。しかも、部活動に関心を示さず、無気力な、およそ音楽とは縁のないような生徒を無理やり入れたのである。その中の一人、K君は、小柄で落ち着きがなく、何事にも消極的な生徒であった。授業もあまりまじめではなく、音楽に対しても興味を示さなかった。私と、部活動をやってみると約束はしたものの、放課後になると、なかなか音の出せない楽器に根気と興味を失い、時々しか練習に来ないのだった。私は、K君に先生も音楽の教師はしているけれども、吹奏楽については何もわからず、戸惑っていること、楽器を吹くことのできる上級生だけが頼りで、先生も、これから勉強をして部員と、力を合わせてやっていく決心をしたことなどを話した。K君は、この話を聞いて、やりたくないと言うこともできなかったのだろう、せつない顔をしながらも、練習に来るようになった。楽器をもって二か月ぐらいして、音が出せるようになったころから、みずから音楽室へ来て先輩たちといっしょに、いきいきと練習にとりくむようになった。小さな体で大きな楽器を抱え、一心に練習する姿をみたとき、私は目がしらが熱くなることがしばしばだった。

夏休みに入るころには、よき先輩の指導のもとで、なんとか曲が吹けるようになった。部に昇格してから五か月目の呉羽のブラスコンサートで初舞台を踏んだそのときのK君は、白い顔を真赤にさせ吹いていたが、ステージを降りるなり、目をキラキラ輝かせて「先生、みんなの前で演奏するのって気持ちがいいんだね。」わずか数か月前のK君からは、およそ想像もつかない自信に満ちた言葉であった。私は、K君の言葉を聞いたとき、今までの苦労が、一瞬にして消え去り、教師でなければ味わえない満足感にひたったことを思い出す。

それからのK君は、音楽のとりこになったように、「美しい音作り」に、いどむようになったのである。短期間にしての、すばらしい変身であった。不思議なもので、毎年、K君のようなコースをたどる生徒があとをたたない。

吹奏楽部が発足してから三年、部活動もなんとか軌道にのってきた。赴任したときの戸惑いも、生徒たちといっしょに、勉強したり、いろいろなことを経験することによって、解消することができるまでになった。これからは、個々の生徒が持っている音楽性をどんどん引き出せるような指導をしていきたいと思っている。

(いわき市立錦中学校教諭)

 

練習前のひととき

 

 

 

 

 


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