教育福島0040号(1979年(S54)04月)-028page

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再び診療室から

稲富正昭

 

出す。私の職業に合わせて強いて訳せば「治療結果への責任」とでも言えよう。

 

治療の合間にくゆらす紫煙が春の日ざしの中を静かになびく一時ののどけさの中で、ふと最近読んだ一文の中での「accountability」という言葉を思い出す。私の職業に合わせて強いて訳せば「治療結果への責任」とでも言えよう。

田舎町ではあるが、私の診療室を訪れる患者は毎日数多い。そして、それぞれの人が苦痛の度合いに差こそあれみな痛みからの解放や健康回復への希望を抱いて治療台に座る。それは、私への信頼であり、また私を通しての願望でもある。その時から、私と患者の間には、単に医師と患者というカルテを媒介とする形式的な人間関係ではなく、おおげさに表現すれば、患者自身の努力ではどうしょうもない自分の健康への不満や不安を解消しうる唯一の存在者とその願望者との極めて緊密な関係が成立する。困難な症状を持つ患者に出会うこともたびたびである。「あなたの不摂生の結果がこの状態なのですよ。」と突き離せば、それは私にとっては最も簡単な解決方法かもしれない。しかし、その患者の今の苦しみとやがてくるであろう今以上の苦痛を考えるとき、極めて困難ではあるがこの患者への最善の治療を施すことが、おそらく、この人には少なくとも健康という面での明るさが保証されるのである。これが医師である私に課せられた社会的なアカウンタビリティーであると思う。

ここ数年、私は基本的な社会機能の一つであり、人間形成に極めてたいせつな教育という作用に地方教育行政サイドから具体的に参画してきた。

教育の機能は人間性を高めることにあるといわれている。人間性、すなわち「人間らしさとは」という基本的な問いかけを抜きにしても、現実の教育の変容は大きい。かつて教育とは学校教育の代名詞であった。しかし、生涯教育論が巷間で交わされ、ママさんバレーボール大会が紙面をにぎわす昨今では、組織的な教育機能はますます拡大・深化されてきている。それは結果的には教育行政機能への要求・要望の質的変化と量的増加という形で反映してきている。

教育行政という機能は、教育のめざす未来像への問いかけから出発し、その問いかけへの答えを現実面でどう引き出すかがそのはたらきの大部分だと理解している。その解答はいくつかの要素の集合体である。文教施設の拡充・人的構成の適正化、そして教育内容の充実等がその主なものであろう。それらを組織的に機能させることは実に困難である。私は「環境が人を育てる」という信念で文教施設の充実や人的構成の最適化のため関係者との協力の中でできうる限りの意を尽している。その結果は、地域の子供がどう成長し、地域社会の人間関係がどう変化したかによって評価されていると思う。そして、その評価の対象とされた事象、包括的には「文化」への誇りなり責任なりを感じている。そして、その成功感や責任感こそが次の行動への原動力なり、体内にあるエネルギーへの起爆剤になっている。

憂いもある。青少年の非行化の実態は、低年齢化・凶暴化。そして多発化している。心理学者・精神医学者、そして教育関係者による原因の究明・分析・さらにそれへの対処法の提案がなされているにもかかわらず青少年の生からの逃避としての悲しい報道が続く。当事者のあせり、苦悩、そして悲しみは筆舌では表現し得ないであろう。しかし冷徹な目でこの社会・教育問題を考える場合、現実の社会機構や教育機能について、いくつかの欠陥を指摘できる。「子供をたいせつに育てる」ということが実は「過保護」であったり、「自主性」の尊重が「放任」にすり変わるという現実である。

「真の生き方」の追求を教育の中心にすえ、責任の所在はどこか、といった観点からの問題解決にのみ力点を置かず、明るい未来・生活力に満ちた子供の育成のために今どうすることが最善か、ということに対する発想の練り合いを進めたいと思う。その時はじめて「アカウンタビリティー」という言葉への忠誠さが芽生えてくるのではないだろうか。

「結果への責任」は発想から過程でのあり方がたいせつである。

(田島町教育委員会教育委員長)

 

 

 


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