教育福島0042号(1979年(S54)07月)-022page
生じる。小、中学校においては、さしあたってなさねばならないことがらがいろいろと計画され、余裕をもちにくいという実情があろう。また、交流の必要性も盲、聾、養護学校ほどには切実にもたず、積極的にはなりにくい点もある。ただ、小中学校の一人一人の先生がたが障害児に関する理解を深めなくてよいと考えているわけではなかろう。必要感をまとめる適切な機会を設定し、盲、聾、養護学校の願望と通常の学級の教師の必要性を結びつける場と機会が少ないということであろう。文部省では、このあたりの事情をふまえて昭和五十四年度を初年度として二年間、心身障害児理解推進校を各県小学校、中学校各一校、全国で計九十四校の指定を行った。また、一般の小中学校教員を対象に心身障害児指導資料を刊行配布する予定である。
県教育委員会としても、健常児には障害者に対する正しい理解を持たせ、障害児には積極的に社会に参加する態度の育成をめざし、たがいに共同の体験をもち心の交流をはかりたいと願い交流推進事業の実施を計画している。
これは、関係市町村教育委員会の協力を得て盲、聾、養護学校並びに公立小中学生約七百五十名を対象に県内三地区六会場において実施の予定である。このような事業を交流教育の一つの契機としてじゅうぶん活用し、より実りの多い成果を期待したい。
(三) 交流教育実施上の留意点
交流という手段で健常児の障害者に対する理解を深め、同時に障害者の経験の拡大と社会性の伸長をはかるためには、継続して地道な努力が必要である。
1、「ここまでやれるのか」というすすめ方よりは、相互にあまり無理のない自然な姿ではじめ、地道に定着させるよう努力したい。
2、交流校どうしの事前打ち合わせを切にし、計画的にすすめたい。
3、特別活動あるいはゆとりの時間などを中心に相互の教育計画の中に適切に位置づけ無理のない範囲で取りかかりたい。
4、交流教育をすすめるにあたっては校内教職員の共通理解はもちろんのこと、各家庭、地域社会の理解を深め協力を求めるようにてだてをつくしたい。
5、教職員どうし事前の研修を深め、児童生徒相互のトラブルや疑問に適切な対応ができるようにしたい。
6、指導にあたっては、表面的な障害や苦労にのみ気をうばわれることなく、意欲的に取りくむ姿、真剣に努力する姿にも注目させるようにしたい。
7、交流によって啓発された内容を大事に取りあげるなど事後の指導についてもじゅうぶん留意したい。
八、養護教育に携わる教師に望むこと
「教育は人なり」といわれているが、特に心障害児教育において重要なことは、優れた教師によって教育活動がすすめられることである。このことは、改めて申し述べるまでもないことである。
以下、比較的障害の重い児童生徒の教育を念頭に、教師に望むことを述べてみたい。
(一) 子どもを温かくみ、かかわりあいをたいせつに
この教育に従事する教師の多くは、多様な障害と多くの問題をもっている児童生徒に接して、少なからず心身障害児教育の困難さを痛感していることは事実である。
しかし、その困難さに対し、永年この教育に携わっている教師から、機会あるごとに、障害が重度過ぎて何もできない。」「何を教えてもわからない」。といった否定的・悲観的な声を聞かされることは残念なことである。
現実に、こういう児童生徒に直面して、このような見方、考え方をしていては、ただ、単なるながめとしての障害児はいても、教師としてかかわり合う存在者としての障害児を見い出すことはできないであろう。
児童生徒の障害が重度になればなるほど、一人の人間としての教師のかかわり合いが、その発達にとってより重要な意味をもつものである。
このことを基本的なこととして心にとめておく必要がある。
(二) 教育の概念の変革を図る
よく障害の重い児童生徒に「教育は可能か」。という問題の投げかけをする人がいる。
これは、過去の学校教育のように教育に一定の基準(さんすう、1・2・3、ひらがな、あ・い・う・え・お)を設けて、それらができない児童生徒は、教育対象外だとみるところから生まれてくる考えである。
「教育はすべての児童生徒にありうる。」という前提で受けとめることがたいせつである。
例えば、ひらがなが書けない児童生徒には、その学習のためのレデイネスを獲得すること。これも立派な教育である。
そのためには、個々の児童生徒の生活を充足し、よりよい環境条件を作るための働きかけを行う。それが児童生徒の成長発達を促すことになる。
つまり、健常児が小学校に入学するまでに家庭等において習得されるものも、障害児は、いろいろなハンデのために未習得の状態におかれている。これを学校教育の中に取り入れる。
今までの「学校教育が可能だ。」とい