教育福島0042号(1979年(S54)07月)-024page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

自然の中で

 

松崎和子

 

松崎和子

 

「理科は、むずかしいから嫌いです」。四年前、理科の好き嫌いを調査してみると、このような理由で理科をいやがる児童が一割もいた。理科が好きで教材研究を重ね一生懸命指導してきた私にとっては思いもかけないことだった。

当時私は、科学的な能力・態度の育成をめざして理屈っぽい理論を導入し程度の高い授業であると得意になっていた。児童も積極的に学習に参加していたので、全員よろこんで理科に取り組んでいると思っていたのである。しかし、教師や一部の児童にとっては楽しい授業ではあったが、理論的にむずかしすぎて、ついてこれない児童にとっては苦痛な授業だったわけである。

そこで、その子らを理科好きな児童にするための糸口として、私自身はどうして理科好きになったかを考えてみた。いろいろの要因があるが、一番の要因は、子供のころ自然に深く接して育ったことだと思われる。

私が生まれて育った所は、白河の五箇村という田舎で、山や川や野原などを相手にして成長した。春は、せりなずなをつみ、レンゲやシロツメ草の花で遊び、夏は、川でザッコをすくい、秋は、柿の実をとり、栗をひろい、冬は、そりすべりと、自然にひたって楽しい毎日をすごしていた。小学校のころは、郡山に移り住んでいたが、戦争そして終戦の食糧難の時代であったため、今度は食糧を得るために積極的に自然に働きかけていた。草を刈ってはうさぎを飼い、畑をつくっては芋や豆をつくり野菜をつくった。

このような経験を通して、自然のすばらしさ、自然の恵みを知り、自然への認識を深めることができた。自然との深いかかわり合いこそが理科好きへの近道であり、自然は、すばらしい教師であることがわかった。

では、今までの私の理科の授業はどうだったであろうか。理論を優先するため、教室で教師の準備した自然の一部を与えていたにすぎず、ほんとうの自然を与えていなかったことに気づいた。それ以後、自然との接触をできうるかぎり多くするよう心がけて授業にのぞむように努力してきた。

現在、二年生を担任しているが、機会あるごとに自然にとけこませるようくふうしている。その一例として、四季おりおりに「自然散歩」をしている。散歩して出会った自然現象についてみんなで見たり調べたり考えたり遊んだりして、自然についての認識を楽しみながら深めている。つぎは、先日の自然散歩での楽しい会話の一コマである。

「タンポポのわた毛とばしっこしよう。」

「先生来て。五月なのにトンボがいるよ。水の所で何かしているよ。」

「先生、シロツメ草の編み方教えて。」

「先生、小さなタニシをみつけたよ。教室で育ててみようよ。」

子供たちは、意欲的に自然にはたらきかけ、いろいろなことを吸収している。ときには、浅学非才の私にはわからない問題も出てくる。教師にとってもまた研修の良い機会でもある。

「アーア、楽しかった。この続き、家へ帰ってからもやってみよう。」

満足そうな児童の顔をみていると自然の力の偉大さをしみじみと知らされ、自然の中での教育のたいせつさを再確認させられた。

こんな楽しい散歩ができるのも学校のまわりに人手のはいらない自然があるからである。しかし、我が校のまわりにも都市化の波が急速に押し寄せ、一年ごとに自然が減ってきている。近代的な生活環境も必要であるが、人手のはいらない自然もまた必要である。両方を共存共栄させる妙策はないものだろうか。

(郡山市立大成小学校教諭)

 

楽しい自然散歩

 

楽しい自然散歩

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。