教育福島0043号(1979年(S54)08月)-026page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

わんぱく一年生に思う

 

小泉直子

 

小泉直子

 

男子三十一名、女子九名、合計四十名の一年生を担任して早くも四か月が過ぎようとしている。このクラスは、男女比がアンバランスなばかりでなく多くの特性を持っている。

まず好奇心が旺盛なことである。休み時間に廊下の電気がついたり消えたり、行って見ると教師でさえ気のつかない所にあるスイッチのいたずらである。また、トイレに行ったまま帰って来ないので行ってみると水洗便所での水遊び、はたまた水槽に手をつっ込んでの金魚つかみ等々。

遊びも行動的で創造的である。学校のきまりもなんのその。少しでも目を離せば、回旋塔によじ登り、非常階段では上と下でボール投げ、家に帰っては三キロも離れた川まで、禁止されている自転車でざりがにとり等、はらはらすることの連続である。

学習中は興味があることに対しては熱心になるが、教師の指示は容易なことでは徹底しない。長い教職生活の大半を低学年で過ごしている私にとって非常に珍しい一年生である。

なんとか落ち着いたクラスにしたいといろいろな手を尽くしてもその効果は遅々として挙がらないまま時が過ぎ完全に行き詰まってしまった。

そんな五月初めの連休の日、十年前の中井塚分校の教え子四人がひょっこり遊びに来た。夫と二人きりの閑居に珍客とばかり久しぶりに料理の腕をふるった。

Aは大工に、Bは建具職人に、Cは水道の配管工に、Dは自動車の整備工にと、それぞれ仕事に生きがいを感じ精を出している様子に夫も私もいたく満足した。

「お父さんお母さんは元気かい。」

「彼女はできたかい。」

「同級のあの子はどうしてる。」

と話は尽きず夜の更けるのも忘れての語らいであった。

一家四人で分校住宅に引っ越して三年間、今までに最も印象に残る期間であった。初めての複式学級担任ということで多少の戸惑いもあったが、文字どおり子供とともに歩んだ明け暮れであった。歩みは遅々としていたが子供たちの学習態度は真剣そのものであり、子供たちと教師の間には豊かなふれ合いがあった。コークスストーブや給食用のまき作りにともに汗を流し、わらびとりやきのことりに野山をかけ回ったものである。赤ちゃんが死んだといっては見舞に行っていっしょに泣き、開拓部落に電気がつけばお祝いにかけつけた。そんなことが教師と子供を結びつけ、印象深い学校生活にしていったものと思われる。

さわやかな風のように教え子たちが去った後、私の行き詰まった心に何かひらめきのようなものが生まれてきた。あのころの子供たちとの心の通いが今の私にあるだろうか。あのころのゆとりが今の私と子供たちにあるだろうか。

忙しさに追われ、つい心のあせりが先に立ち、かんじんな仕事を忘れていたのである。子供たちとの対話とふれ合いがすべての指導の基本にあることを。そして教育の場における「ゆとり」がどんなにたいせつなものであるかをあらためて考えさせられた次第である。

今は子供たちとともに遊びふれ合い彼等の気持ちを掌中に収めること、そして相通じ合う心づくりに専念する毎日である。

「三か月たったら学級のしつけの責任は担任教師にある。」とよくいわれる。私の場合、半年になるか一年になるかはわからないが、わんぱく一年生に負けないようにがんばりたいと思う。

(新地町立駒ヶ嶺小学校教諭)

 

走れ思うぞんぶんに

走れ思うぞんぶんに

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。