教育福島0043号(1979年(S54)08月)-027page
グループノートより
佐藤友紀
ある日のグループノートにY君が、次のような文章を書いていた。
「ぼくは、ダメな生徒なんだろうか。勉強は好きなほうではないし、宿題も忘れてやらないときがある。テストの成績も悪く『お前は何をやってるんだ』と先生がたに注意されることが多い…。でもぼくは、ぼくなりにはがんばっているつもりなのだが…。自分で自分がいやになることがある。となりのA君は、それほど努力をしていないようなのに、いつも成績が良く先生がたにほめられる。きっといい高校にいけるだろうなあ。ぼくはダメだ。ああまた中間テストがやってくる。どうしたらいいだろう。」
私は、この文章を読んでハッとした。
『お前は何をやってるんだ』といっている教師の一人であったからだ。
「ぼくなりにはがんばっているつもりなのだが…」とのべているようになんとか良い生徒になりたいのに、どうすれば良い生徒になれるのか、わからない自分自身に迷いを感じていたのである。それなのに私は、このY君をどのようにみ、どんな評価をしようとしていたのだろうか。
金沢嘉市氏の著書に「人間にくずはない」というのがある。私はこの考え方に賛成である。
教育における評価は、ただ良いところを良いとみ、悪いところは悪いとみるだけの評価ではなく、悪いところにさえ潜んでいる小さな光ったものをみてやる評価でなければならないと思っている。ところが、私たちは、子供の価値をテストの結果だけで評価し、それが当然かのように思いこんでいる場合が多い。点数の高い生徒は良い生徒、点数の低い生徒はダメな生徒と評価することに疑いももたず、即人間性の評価に結びつけているのである。教育における評価はそんなものだろうか。
例えば、国語の評価をする場合、点数の高い生徒が必ずしも国語の力があるとは限らない。点数が高いか低いかの視点からみれば、低い者でも、読解力の点からみれば、やわらかな潤いのある読解力をもち、温い判断力に満ちている場合もある。
このようなねうちをその生徒なりにみつけてやり、そのもっているいいものをたいせつにさせ、自覚させ、ますます光かがやくものに育ててやることそれが教育であると思っている。
また、「君の点数は良いが、『潤いに欠けているぞ』『冷たすぎるぞ』『かたすぎるぞ』」と、高い得点で安心しいい気になっている生徒をたしなめてやるのも教育であろうと思っている。
そんなある日の放課後、Y君が一人で教室の整理整とんをしていた。
「何してるの?」と聞くと、「きたなくよごれていたから……」とはにかんでいた。「ほう、えらいなあ。」といいながら、家のことや勉強のことなどを話し合った。「君は、考え方はすぐれているのだから、もう少し自信をもってやってごらん。」「はい。」と元気よく返事をして帰っていった。次の日からY君は、きちんと宿題をやってくるようになった。
表面的な印象や、ペーパーテストの点数だけで、子供の価値を決めつけてしまうことが、どんなに残酷な恐ろしいことであるか、心にしみたような気がした。「人間にくずはない」の考えで、一人一人の子供のもつ小さな光をみつけてやることこそ、教師の使命であると痛感している。
(福島市立北信中学校教諭)
グループごとの話しあい