教育福島0044号(1979年(S54)09月)-024page

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求める子供のために

 

白井愼江

 

スPTA会長さん一人ぽつねんとたたずみ、寒々しい姿で私の赴任を待っていた。

 

平地の学校では、もう雪も消え、校庭では、ボール運動や自転車乗りに興じている昭和三十八年四月四日、残雪とけやらぬ中和峠を踏み越え、ただ一人で中山分校に赴任した。その日は入学式当日なので早朝に着任した。玄関に年老いたPTA会長さん一人ぽつねんとたたずみ、寒々しい姿で私の赴任を待っていた。

入学児十名、二年五名、三年五名、四年九名の計二十九名、四複の単級である。その年から四年間四複が続いた。二十九名の子供がこの学び舎にやってくるのだ。

「さあ、私はやるぞ。一心不乱に。」数日後から私は、分校の一室に泊り込み昼夜精一杯がんばった。まず校舎の美化からと、なわたわしを作り、木灰を集めて床の水洗いを始めた。一週間がかりで整理をつけ、家庭訪問も済ませた。父兄の教育的関心をそそることを胸に秘め、夜の懇談会も催した。テレビもまだ普及されない山峡の里の親たちと、切々と話を進めていくと意外にも反応は大きかった。「学習会を始めよう。」という声さえ出て父兄との学習会を開くまでにもり上がった。

初めに漢字学習や子供と歌えるようにと音楽学習を進めることにした。父兄だけでなく、婦人会のかたまで参加するというまでにその意気ごみはすばらしかった。

静かな夜空に歌声がひびき、国語の音読の声が広がり、ほほえましい情景と化した。子供たちの漢字力も日ごとに向上していった。村人たちの学校への協力体制も固まってきた。

そのうち「毛筆の練習をしたい。」という声があり、習字練習にも励んだ。夜なべ仕事も多い農村のこととて週一回、地域住民の夜の学習会だった。

自信をもつにつれて「席書大会をしたらどうだろう。」との声が聞かれるようになり、多少のとまどいがあったが、有志の声援もあり、昭和四十年三月十日、第一回の席書大会を開くことになった。

春とは名のみ、雪の降りしきる中を大会前の一週間は猛練習が続く。「お母さん、がんばって練習してきてね。」「おばあちゃん、るすばんしてるから早く学校へ行くといいよ。」という子供の声に送られて、分校に集まってくる親たちの姿に、言葉に表現できない感動さえ覚えた。

大会準備として、ささやかな手製の賞状と商品をPTAの方と用意したもののいささか不安を感じていた。

ところが大会当日その不安をよそに父兄はにちろん村人たち多数の参加がみられ、教室はいっぱいになった。席書にいそむ姿、真剣なまなざし、なんともほほえましいことか。目頭の熱くなるのを感じた。りっぱな作品が仕上がった。賞状商品を手にし、子供と村中の人たちがお互いにほめたたえあった最初の席書大会であった。

あれ以来、中山部の年間行事の一つになり、毎年二月に実施され、今年の二月十四日には、第十五周年記念の席書大会が盛大に行われたのである。「生きがいを感じる。」と老人たち、「子供とへだたりなく話し合いができた。」「子供に教えたり、教えられたりできてうれしい。」と父兄の声に、胸が熱くなり「あーやってよかった。続けてよかった。」と思う昨今である。

いまだに続く席書をとおしての村人たちとの交流、白紙に墨色も鮮やかに書き上げる喜びを通じて、これからも地域ぐるみの教育を進めていきたい。

教職にあたって三十八年目を迎えた私は、分校の教師としての誇りをもち、「求める子供のために。」をモットーに、この道を歩み続けたいと思っている。

(下郷町立楢原小学校中山分校教諭)

 

練習も心のふれあいの場

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