教育福島0044号(1979年(S54)09月)-027page

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樹と教育

 

橋本辰夫

 

続けているような姿になっているのを見ると胸をさされるような思いがする。

 

長い教員生活の中で、統合された学校に何回か奉職した。その中で苦労してきたことは生徒指導の面と、環境緑化の仕事である。私は教科の関係からいつも環境緑化の係を分担した。水田の真ん中に建った校舎、山間の斜面を切り開いて造った校舎など、そのたびに校舎にふさわしい環境づくりの設計から、植樹の実際、その後の手入れなどいっさい引きうけたものである。それらの学校を訪れる機会があるたびに植えられた樹々を見るのが楽しみである。よく手入れされすばらしく生長した姿に接するとこの上なくうれしくなる。反面、樹木本来の樹形を現さずにみじめに生きている姿を見いだしたときや、伸びるべき主幹が途中で切られたり、主枝のほとんどが切り落され細い枝でようやく生き続けているような姿になっているのを見ると胸をさされるような思いがする。

環境の良いところに植えられ、手入れのよい樹は、すくすくと伸び大地に根をしっかりとおろし、風雪にもめげず、その樹本来のもっている樹形がっくられる。しかし、例えば陽樹である松が日当たりの悪いところに植えられると、本来の形はおろかだんだんと緑をなくし、やがて枯れてしまう。植物の種類それぞれに生育に適した環境があり、はじめてそのもののもっている個性が生かされ自然の美しさが現れるのである。

子供の教育はこの樹を育てるのとよく似ていると思う。私たちは子供がすくすくと伸びるのに適した環境を常に与えなければならない。それぞれの子供のもつ個性をじゅうぶんに見きわめ、その伸長をはかる教育的手だてをいつも最適にしなくてはならないわけである。樹の場合は、それぞれの樹種でどんな環境にして育てたらよいかの目やすはつくが、子供の場合、それぞれのもっている諸条件がすべて個性的であり独自の特徴をもち、一人として同じものはいない。この一人一人の人格を望ましい方向に形成させようとするには、子供のもつそれぞれの特徴や傾向をよく理解しなくてはならない。これによってどこを改めるべきか、いつどのような方法で指導するのが最適であるかが明らかになるわけである。

特にむずかしいのは中学校における仕上げともいうべき進路指導ではないだろうか。どの高校へ進学すべきかを決定するのに当たって、偏差値による線引きにおいて、神ならぬ身のあやまちをおかしていないだろうか。樹の大事な主幹を切ってしまったのではないだろうか。植える場所がちがってしまったのではないだろうかなど、常に胸をいためる問題がある。

私は植物が好きである。しかし盆栽作りはどうしても好きになれない。くわず嫌いのせいかもしれない。よく考えてみると、小さな鉢に植え、愛情こめた手入れをして育ててはいるが、枝を切り、主幹を曲げ、あらゆる手をつくして一定の形をつくってしまう盆栽作り的教育に疑問をもっているからだろう。現代の教育の中でこの過保護的手法がないとはいえないように思う。子供のもつ個性をじゅうぶんに伸ばす指導こそたいせつではないだろうか。かといって放任では大変である。私の学校にすばらしい「コウヤマキ」がある。残念なことに主幹が途中から二本になっている。切るべきときに英断をもって切らなかった一つの例である。生徒指導もこれと同じく伸ばすべきは伸ばし、切るべきものはなるべく早く切らねばならない。要は子供を深く理解することにつきるのではないだろうか。 

(鏡石町立鏡石中学校教諭)

 

環境は人をつくる

環境は人をつくる

 

 

 


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