教育福島0044号(1979年(S54)09月)-040page

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昭和54年度 上半期の児童図書

 

最近のジュニア文学

 

●図書館コーナー●

 

●図書館コーナー●

 

「グローバーくん」 (ベラ、ビル・クリーバ共著 冨山房)

十一才の男の子グローバーくんにとって、母親の自殺は、あまりにもショッキングな事件だった。誰も寄せつけず、ひとり悲しみにひたりきっている父親の姿をみて、グローバーくんは、父親のようにはなるまいと思う。泣きわめいたってなんにもなりはしないのだから。グローバーくんは、死というものを考え、耐えるということを学ぶ。グローバーくんの目を通して、人間が成長してゆくために必要な、人生の現実と試練を描いている。

「カレンの日記」 (ジュディ・ブルーム著 偕成社)

トゲトゲしい言葉がとびかう夕食、両親がそろうと、とたん一触即発のピリピリした空気。カレンの家庭は、いっからこんな風になってしまったのだろうか。両親の離婚は、もはやさけられない現実のようだが、カレンは、それでも自分の努力次第で、その危機をまぬがれるのではないかと、空しい努力を重ねる。両親の離婚に直面した子どもの不安と悩みを、一少女の視点から描いた作品である。

「魔女の猫ウォーム」 (Z・K・スナイダー著 冨山房)

「母親のようにはみえない」若く美人の母親を持つ十二歳のジェシカは、いつもひとりぼっち。母親はボーイフレンドとのデートに忙しく、ジェシカは夕食でさえ、インスタント食品をひとりで食べることが多い。ある雨の日、ジェシカはコネコをひろう。ぬれそぼれた醜いコネコの中に、自分の姿をみたジェシカは、自己の怒り、疎外感、復しゅうなどを、コネコの呪いのせいにし、自分の行動を正当化する。

「愛について」 (ワジム・フ口口フ著岩波店)

十四才のサーシャのまわりには、男の子の友達のほかに、少々おせっかいな同級生のオリガ、サーシャが秘かにあこがれている優等生で美人のナターシャ、グラマーで挑発的なレンカがいる。そしてサーシャは、「ぼくたちが、あらゆることを知る必要はないし、気の合った相手とやたらにくちづけをはじめなければならないはずはない」と考えはするが、それでも、やはり大人たちが「もっと何度も、事をわけた説明をしてくれたら、ぼくたちもばかなまねをしないですむかも知れない」と思っている。そして、家出をした母親を呼びもどしに行き、同じ劇団の男優と母親との抱擁をかい間みて、そこに父親との間にはみられなかった母親の姿を見出し、だまって引返す。

ここに紹介した海外の四冊のジュニア文学は、子供時代と大人へのはざまに立った子供たちの姿を、現代社会の現象とからませながら、浮き彫りにしている。

近年のジュニア文学は、以前とは大部おもむきが変わってきている。以前も同じように、さまざまな型で人生への追求がなされていたが、それは、あくまで、子供同士の葛藤の中で描かれており、大人の役割はワキ役で、子供対大人としての取り上げ方はされなかったように思う。また、死や離婚や性の問題を正面切って児童文学の中に持ちこむことはされなかった、現代の児童文学の中にこのような問題がメインテーマとして取り上げられることは、今日の社会が、子供と大人の世界が以前より、より密着度が高くなってきていることの表れであろう。

子供の読み物は、楽しくあるべきだと思う。生きることへの希望を強く打ち出したものがふさわしく、人生の暗い面、人間性活のドロドロした面は、幼い子供には好ましくないのはたしかである。

しかし、ある年齢に達した子供−大人の世界の入口にさしかかった年齢の子供1には、人間社会の影の部分も、ときには描きだしてみせることが必要ではないだろうか。死、孤独、両親の離婚、性などに直面した子供たちが、自力で、あるいは周囲の理解ある大人に見守られながら、生きることへの意味を探り、アイデンティティを追求してゆくプロセスを、文学の中から学ぶことは、現代の子供たちにとってたいせつなことと思う。

今日「愛について」のサーシャ同様、大人が、何事も「事をわけて説明してくれたなら、バカなまねをしなくともすむ」と思っている子供たちはたくさんいるだろう。若い読者が、これらの文学から学ぶことは非常に大きい。

しかし残念ながら、今日の十代の人たちは、だんだん読書から遠ざかって行く。

今日も、これらのすばらしい本は、借り手のないまま、図書館の書棚に若い読者をまっているのである。

 

 

 


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