教育福島0045号(1979年(S54)10月)-027page
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ずいそう
埼玉二年目
佐藤吉郎
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全国有数の人口急増地帯、埼玉県越谷市、この越谷の地に来てもう一年半が過ぎようとしている。三年間の期限のちょうど半分である。
過疎化が心配されている田村郡の児童数百二十名、職員数八名の学校から、過密に悩む首都圏の児童数千四百名、職員数五十名のマンモス校への転勤は、覚悟はしていたが、私をとりまく諸条件のあまりの変化に戸惑うことばかりであった。
五十名の職員のうち、私よりも年下の先生が四十名もいるなどということは福島では考えも及ばなかったし、四十名以上の児童を担任するのも、私には初体験である。加えて、学年主任をもまかされ、学年経営にもあたらなければならない。それだけではない。私のクラスには自閉症児がいたのだ。
赴任して校長先生とお話したとき、第一に言われたことは、この自閉症児をよろしくとのことだった。その次に、「学年主任もお願いするので…。」だった。今になって思えば、学年主任の仕事よりも、自閉症児指導の方がたいへんなのだから、校長先生の話の順序は正しかったのかも知れない。
福島にいたときは、私が一番年下だったので、先生がたに甘えることもできたし、なにかあると教えていただくこともできた。
ところが、埼玉に来たとたんに、「これはどうするのですか。」と若い先生がたには質問されるし、教務の先生からは、「新任研のための示範授業をして下さい。」といったぐあいである。わからないなどと逃げることもできないし、いやですと断わることもできない。
こんなわけで、昨年度は本当に苦しい一年だったが、自分でも驚くほどよく努力もした。本も読んだ。今ふり返ってみると、教師生活八年間の中で、最も充実した年だったように思われる。
今年は、二年目。学校や地域の様子もつかめて、かなり精神的に余裕を持って仕事ができるようになってきた。自分をだしてみようと思い、学年経営、学級経営等にも意欲的に取り組んでいるつもりである。
私が埼玉に来てよかったと思っていることは、多くのサークル活動に参加する中で数多くの人との出会いができたことである。
実は、埼玉に来ることが決まったときに第一に考えたのは、せっかくの機会なのだから、今までにできなかったなにかをやってこようということであった。そんなこともあって、四月から東京の特活のサークルに入れてもらった。さすがに中央のサークルだけあって、特活では全国的に有名な先生がたも多く、そうした先生がたから直接指導もいただけるので、以来毎月休まず参加している。昨年は、『ゆとりの時間』についての話し合いもなされ、新教育課程での『ゆとりの時間』の活用のあり方、さらに、特活の本質等について勉強できたことは有意義であった。この他に、道徳や国語のサークルにも加入し、毎月活動している。
埼玉に来るとき、当時の義務教育課主幹二瓶先生が話された「自分の力を思いっきり出してみなさい。さらに、吸収できるものは食欲に吸収して来なさい。」のことばを忘れることなく、残された一年半の日々を価値あるものにしたいと思う。
ともかくも埼玉二年目、福島弁はいっこうにぬけないが、派遣教員として福島県の名に恥じないよう努力する覚悟である。
(越谷市立出羽小学校教諭)
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この子たちとの出会いもたいせつに
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