教育福島0046号(1979年(S54)11月)-025page
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鏡の裏をみる
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宮原紀昭
子供たちが「光っている、光っている」とこそこそ話しているのを耳にするようになったのは、原二小の六年を担任してから数週間たったころであった。「なにが光っているのだろう」とあまり気にもとめずにいたが、度々その言葉を耳にするので少しずつ気になるようになったある日のことである。子供たちが、いつものように私のまわりを囲み、様子をうかがっている。そのような様子は「光っている」ということを耳にしてから何度もあったので、子供たちのようすをそっと観察していると、一人の女の子が私の後ろに立ち「やっぱり」という声をだした。
「光っている」ということに気づいたのは数年前、娘と水泳をしているとき、妻が後ろから撮った写真であった。しばらくの間は、その言葉はずい分気になる言葉であったし、頭に手がいく度に「そんなに髪が薄くなったのか」と妻に問うこともしばしばあった。しかし、鏡に写る自分の姿に光っている様子は少しも分からない。いつしかあまり気にもとめなくなっていたやさきに子供たちから指摘されたのである。少々哀しい思いもした。しかし、事実は事実である。そのことをいわれても気にしてはいけない。「みんなを受け持つ男の先生は、みんな光っている先生ばかりだな、先生もその一人だね」すると、子供たちはくすっと笑った。その日以後、子供たちのひそひそ話、「光っている」ことを耳にしなくなった。
鏡に映る自分の姿は、ほんの一部であり、鏡の裏には自分の見えない部分が数多く隠されているものである。これと同じく、どの子供も磨けば磨くほど、光り輝く素質をもっているはずである。それを見い出し、磨いてやるのが私たちの職務であり、使命である。
若ければ、若さというなににも増してすばらしい熱意がある。しかし、「光っている」といわれる年になった私には、熱意だけでは子供たちに受け入れられるものではない。指導技術や指導方法のうまさだけに頼ってもすむものではない。「心の和」をもって一人一人の子供の中に入っていかなければ、個々の素質も可能性も見い出してやることはできないだろう。
わずかな努力・向上でもそれを認め、賞賛することが子供を伸長させるのである。
秋風が吹き始め、まもなくプールじまいが近づいた水泳の時間のことである。一学期までは、あまり水泳が得意でなかったKは、その日はなんとなく張り切っている。本時のねらいは速さよりも、距離への挑戦である。校内水泳大会では選手になれなかったKは、この日を待っていたようにスタート台についた。笛の合図で、次々に飛び込み泳ぎ始めた。一人また一人と落後していくなかで黙々と泳ぎ続ける。そのうち学級の子供たちは、一人、二人とプールサイドに歩み寄り、ついには学級全員で「ほら三百だ 四百だ、がんばれ、がんばれ」と声をかける。つい五百メートルを泳ぎきった 呼吸も乱れず、まだ泳げたのにといった顔をして上がってきた。
次の日から、Kはひとが変わった。今までは、学習は遅れがち、毎日提出しなければならない課題はほとんどしなかったのに、その日を境にまるでひとが変わったように努力するようになった。拾い読みながらも、自分から進んで本を読み、課題も提出するようになった。後頭部がしぜんに光を増すようなわけにはいかないが、教職にたずさわる者の使命をいっそう自覚し、教師として少しでも成長するよう努力していきたいと思うこのごろである。
(原町市立原町第二小学校教諭)
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記録更新への挑戦
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