教育福島0047号(1979年(S54)12月)-033page

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小さな白球を媒介にして

 

鈴木昭雄

 

その瞬間、私は「ヤッター!」と両手を上げ、喜んだ。

 

その瞬間、私は「ヤッター!」と両手を上げ、喜んだ。

「先生、二十一対十六で勝ち…」

涙であふれたT子のことばは、最後まで聞きとれなかった。

今年度の郡卓球大会、女子個人オープン戦、準々決勝第三セット終了時のことである。その試合は、大会の事実上の決勝戦とみられ、大方の予想では相手の方が上であるとみられていた。T子自身も心のどこかでは、「勝てない」と思っていた最大の強敵であったのだ。T子はその後、順調に勝ち進み見事、優勝を獲得したのである。

まだ雪深い伊南中学校に希望と不安を胸に、新任教員として赴任して、四年の年月が流れようとしている。

赴任以来、卓球部の顧問として生徒を指導してきた。一年目は、指導では定評のあるA先生といっしょであった。卓球はできても、指導となるとなにからしでいいのかわからなかった。そこでA先生の指導を見よう見まねで、自分に取り入れるよう努めた。やがて、A先生は、私を育てる意味から、部を私に任せてくれた。

しかし、実際、指導してみて、生徒を動かすことは、むずかしかった。

「練習が単調だ」とあきて近くの川に魚とりに行くものはいる。女子にあっては、「練習をかまってもらえない」と言って泣くものはいる。練習をさぼるものはいる。……そうこうしているうちに、卓球部の活動は開店休業の状態になってしまい、私も、「三年担任で忙しい」というのを口実にほとんど部をかまわなくなった。

卒業式の日、私は一年間をふり返って、「今、巣立っていく彼らになにか心の支えになるものを残してやれただろうか」「ともに汗を流し、苦しんできただろうか」などと、自分に問いかけてみた。

そんな問いかけが、私に「ようし、この小さな白球にかけて、生徒とともに追ってみよう」ということを決意させた。あのT子たちが入学した教職二年目の四月のことである。

以来、「あいさつができる」「厳後まで白球を追う」「継続してやる」「過程がたいせつ」などを柱に、朝夕、練習に励んできたつもりだ。

次は、T子の「私と卓球」という作文の一部である。

「私は、小学校のころから、運動というものが、からっきしだめで、一年生の時からほとんどが『2』。そんな私は中学一年の時、入る部がなく、卓球部に入りました。

はじめは、ラケットの持ち方も、ボールにあてることもできませんでした。そして、球拾い、私は、必死になって追いかけました。〔中略〕

一年の九月二十三日、私は初めて、他校の人と試合をしました。一セット二セットとも二点しかとれず、わけのわからないまま終わってしまった試合でした。〔中略〕

それから約二年間、私はそのくやしさを忘れず、必死に練習しました。そして、どうにか、郡大会では、団体、個人とも優勝することができ、すばらしい感激を味わうことができました。

運動が全然ダメな私に神様がくれたたった一つの卓球。私は、私の持っている力を精一杯、卓球にぶつけていきたいと思います。」

校長、教頭先生はじめ諸先生がた、父兄、地域に支えられ、教職四年目を迎えるが、部活動の果たすたいせつな役割の一端をようやくつかみかけてきたところである。今後とも、第二、第三のT子をめざし、生徒とともに白球を追い、ともに育てていきたい。

(伊南村立伊南中学校教諭)

 

勝利の瞬間

勝利の瞬間

 

 

 


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