教育福島0047号(1979年(S54)12月)-035page

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基礎指導雑感

 

蓬田良子

 

のなかで、いつも問題になるのが、「基礎的能力の不足」ということである。

 

音楽教育のなかで、いつも問題になるのが、「基礎的能力の不足」ということである。

東京での研修会でも、集まった教師が口にするのはこれであり、同じように中教研での研究テーマでも、かなりの回数が、この問題との取り組みであった。

たしかに、実態を見ると、いっせい指導では力があると思えた生徒たちも一人では、四小節の楽譜も即座にはメロディーにできない者が多い。

これでは、義務教育九か年にわたる音楽の授業時数、延べ六百三十時間をもってしても、八小節の教材さえも、自力ではメロディーにすることができないまま、卒業させることになりかねない。

中学一年に入学してはじめたABCも、卒業時までには英作文ができ、ブロークンながら会話もできるようになる。音楽だけがどうして、楽譜を見たら即座にメロディーにできるぐらいの力をつけられないのだろうか。基礎的能力の育成とは、そんなにも難しいものであろうか。

たしかに、音楽科における基礎的能力というものは、一分野のみのドリルによって育成されるものではなく、全領域の総合的学習によってなるものであり、読譜力・記譜力・聴取力ならびに、音楽的反応力の基礎事項が混然一体となって育成されるものである。それだけに領域も広く、問題も多岐にわたり、ここに、いくつかの阻害条件が起きてくる。

その第一が、自校の実態をふまえた系統的・累積的な指導計画がないこと。

第二に、その指導は、地味であり、かつ非常に根気のいるものであること。等々である。

基礎的能力の育成といっても、人それぞれ考え方が違い、指導の具体的実践においても展開の仕方が異なるわけであるが自校の実態を直視し、自校独自の、教師自身の手になる年間計画、展開案の整備が必須条件に思える。どの角度から手をほどこすべきかに迷い具体的実践の展開などないまま、その場限りのものとして、なおざりにしていたのでは、基礎的能力の育成は望めない。そして、与える場では与え、引き出す場では、あせらず忍耐強く、じっと反応を待つといった指導が肝要に思える。待ち切れずに、つい援助の手をさしのべると、これがすべて聴唱法と化してしまい、いつまでたっても自力で解決することができず、基礎的能力の育成は望めないと思う。特に、初期の指導におけるこの姿勢こそは、その鍵とも思える。

地味で、しかも非常に根気のいるこれらの指導は、ともすると敬遠されて領域が広いの、計画がないのと、片隅においやられ、仕上げを急いだ華やかな合唱・合奏の陰にかくされてしまうのではなかろうか。基礎指導は、無味乾燥だ、技術にのみ走りすぎるといわれるのも、ひとつのかくれみのなのではなかろうか。一時間に、五分や七分の基礎指導にそんなことはあり得ないし、これによって育成された転移力ある能力が、いかに、学習を効率的なものにし、自力での征服感が、いかに意欲を高めるものであるか、はかり知れないものがある。

そして、これこそが、美しい音楽をみずから求め、味わい、愛好する心情の育成にも通ずるものではなかろうか。

階名唱・和音合唱・終止形合唱・リズムカノン・単音おいかけ・マッチング・聴音記譜……等々、さまざまなくふうをこらし、コツコツと、かつ大いに楽しく、基礎指導に意欲を燃やす毎日である。(飯野町立飯野中学校教諭)

 

教科委員中心に発声練習

教科委員中心に発声練習

 

 

 


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