教育福島0048号(1980年(S55)01月)-026page
養護教員として二十六年
稲本 ツネ
幾星霜経れど忘れじ初任地の
寄り添えし児らのつぶらな瞳
私は、昭和二十八年の冬、南会津郡田島町からバスで二十分の山あいの檜沢小学校に、養護教員として希望と期待をもち赴任しましたが、見知らぬ土地ではじめての教員生活をおくる不安は隠しきれませんでした。しかし、それを払しょくしてくれたのが、人なつっこい児童と校長生先をはじめとする先生がたの温かいまなざしでした。また、土地に対する不安も地域の人々の心の温かさにとけていき、しだいに解消されていきました。三つの分校を含め二百八十五名の子供たちと、精一杯やってみようと決意をかため、新任養護教員としてスタートしました。
児の怪我を治療し尽くす薬なく
涙ながせし日遠くになりぬ
そのころは、まだ学校保健の内容も貧弱で保健室は宿直室といっしょでした。保健室とは名ばかりで、けがで来室する子供に消毒もじゅうぶんしてやれないものでした。また、保健指導をするのにも教材とするのに必要な資料が乏しく、日課となったのは、女の子のしらみ退治です。現在のように髪を洗うのにもシャンプーなどない時代でしたので、不潔がしらみを殖やしていました。あれでよく発疹チフスにかからなかったものだと、今でも不思議に思っているくらいです。
ささやかな保健室なれど温かく
児らを看取らん養護教員我は
現任校の下郷中学校は、下郷町にあった三つの中学校が統合してできた学校で、昭和四十九年に新校舎が完成して以来勤務しています。現在の生徒数は四百七十七名ですが、統合当時は約七百名でした。最初は生徒や家庭環境、それに地域の実態もよくわからなかったので、とまどったり、あせったりして、慌ただしい毎日をおくりました。なれない遠距離通学による疲労が原因で、朝から「頭が痛い」「腹が痛い」といって治療を受けに来る者、「昨日家で手を切った」「昨晩足を打った所が痛い」などいって治療をせがむ者もいて、あわてたり、嘆いたりもしました。その後生徒だちは遠距離通学にもなれ、それに安全教育や保健指導も行き届き、また月一回「健康のしおり」を発行して、家庭へ協力を呼びかけるなどした結果、学校においての災害や大病をする子供が、年々少なくなってきたことは、本当にうれしく思っています。また下郷中学校では冬期間、寄宿舎が開設され、今年は六十六名の生徒が寄宿生活をしていますが、親もとを離れた生徒たちが、かぜをひかないように、病気にならないように、時々夕方に訪れて、注意したり、励ましたりしていますが、これも養護教員としての務めだと思っています。
養護教員の年々増える嬉しさよ
手をとり合いて児らを守らん
法の改正とは、こんなにもたいへんなものなのか。なんと長い月日を経たことだろう。なんとかして一校一名の養護教員の配置を願いながら今日までまいりました。そして今希望に満ちた若い人たちが同僚として年々採用されていることに心から喜びを感じています。心豊かな心身ともに健全な子供を育成するためには、なんといってもしっかりした保健計画を樹立し、専門的知識をもってあたる養護教員の必要性を強く感じるとともに、同僚の皆様といっしょにさらに研究改善を進めなくてはならないと思っています。明日こそ、来年こそと明るい希望をもちつつ、養護教員としての使命を果たしたいと思います。
ひたすらに児らの健康祈りつつ
二十六年わが道を行く
(下郷町立下郷中学校養護教諭)
保健部の活動も楽しく