教育福島0050号(1980年(S55)04月)-028page

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随想

 

叱るときには

 

大槻邦雄

 

かったが、自分の教育の成果の一部が証明されたような気がして満足であった。

 

二十数年前の新卒時代のことである。農村の中学に三年勤め、漁村の中学に転勤することになった。村の中学に別れを告げるとき、駅には大勢の教え子たちが見送りに集まって来て、その中には涙をためている生徒も見えた。生徒たちとの別れはつらかったが、自分の教育の成果の一部が証明されたような気がして満足であった。

若さによる人気を教育の成果と錯覚し、思い上がっていた私は、漁村の中学に赴任して初めて教育の厳しさも思い知らされたのであった。担当教科である音楽の授業には全く関心を示さず部活動の器楽部へは一人の応募者もいなかった。農村地帯の人なつこい生徒たちに囲まれた、浅い教職経験しかない私には、彼らの無関心さを理解することができず、そのうえ、自分の教師としての無力感とざ折感は募り、なんの解決策も見いだせなかった。時には教職を去ることを考えたりもした。

ある日、思い立ってクラリネットを一本買い求め、生徒のよく集まるベランダで練習を始め、生徒の登校する前には体育館へ行きトランペットも吹いてみた。どちらの楽器も初めて手にする楽器であったから、私の奏するその音は生徒たちの笑い物の種にされた。しかし、笑いながらも一人、二人と近づいてきた。チンドン屋の心境で情けなかったが、わずかながらも心の交流が生まれてうれしかった。私は、生徒たちの外面の荒々しさの陰に、意外に繊細な一面のあることを発見した。

こうしているうちに、少しずつではあるが、器楽部に入部する生徒も出てきた。部員が十数名になったころ、近くの音楽好きの高校生が噂を聞きつけて顔を見せ、手伝うようになった。練習を終えてから、彼らと楽器の演奏法や指導法について、夜遅くまで話し合うこともしばしばあった。その中で、彼らの一人が「先生、叱(しか)るときには魅力的に叱らなくては」と、評したことがある。そのなにげない言葉は、私への痛烈な批判に聞こえた。そのころの私は、相手の立場を考えるほどの理解も余裕もなく、つい刺激的な言葉で一方的に叱っている状態だったから、この言葉には全く虚をつかれた思いがした。叱られて魅力を感ずることなどあるはずがない。これは愛の問題であった。

 

今日も生徒とともに

 

今日も生徒とともに

 

その時から魅力的に叱ることを心がけた。心がけてから、気のせいか、生徒たちの私への態度が変化したように思われ、生徒の気持ちも分かりかけてきた。この地域の人たちは、板子一枚に生と死をかけて、生の限界に挑戦し明日の計画はなかった。この気質は当然のように子供たちにも受け継がれていた。

オーケストラのメンバーは、棒を一振りしただけで指導者の能力を見抜くという。この学校の生徒は、命を張って海と闘っている厳しい環境に生きていて、人の価値をみぬくことにかけては、正にオーケストラのメンバーであり、私は見抜かれた無能の指揮者であった。そこには人間を見る深い愛情が必要であったのに、私は小手先の技術で生徒を扱っていた。みぬかれて裸になった時、人間としての触れ合いが始まった。心の触れ合いが生徒の理解につながった。そこが私の教師としての出発点であった。

私を裸にしてくれたあの生徒たち、愛の重みを教えてくれたあの高校生、今もなお、忘れがたい鮮明な思い出となってよみがえってくる。

つい数日前、生徒の余りの愚行に我を忘れてしまった。魅力的に叱ることは今でも難しい。

(新地町立尚英中学校教諭)

 

 

 


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