教育福島0050号(1980年(S55)04月)-029page
随想
忍耐
渡辺茂
太平洋戦争もいよいよ大詰めの昭和十九年、私は横浜市内に住む両親と別れて箱根の仙石原にいた。いわゆる学童疎開である。当時小学校(国民学校)四年生の私たちは、疎開したものの中では最年少組であったためか男女あわせて百人が家庭的な村長さんのお宅にお世話になった。
上級生三百人は仙郷楼という温泉旅館で過ごしていた。末子であまえん坊の私は今は亡き母と別れて暮すことは実に寂しく切ないものであった。おんなの子たちは、夜になると家に帰りたいと泣いてだだをこね、先生がたを困惑させたものである。事実、登山電車の線路ずたいに脱走を試み、警察の手でつれ戻されたものもいた。そのうえ食糧事情はきびしく、わずかなご飯を長時間よく咬んでたべた。ご飯があまいものだと、そのとき初めて知った。そんな中にあって私たちの父親がわりとしてお世話下さった金子先生のことは今でも忘れない。
あるとき私は、二階に通ずる階段を昇るのに、わざと足を踏みしめてどすんどすんと大きな音をたててみた、無意味なただのいたずらであった。間もなく先生が階下から大声でどなりながら昇ってこられ、心あたりのものは前にでるようにといわれた。いがぐり頭の四人が先生の前に並んだ。私は他にも仲間がいたのにちょっとびっくりした。先生はびんたを始めた。私はこわくて下を向いていた。自分の番になった。先生は大きな左手に私のあごをのせ、右手で軽く頼を打った。かすかな音がした。それはびんたではなく、そっと、さわった程度のものだった。私は思わず先生の顔を見上げた。先生の目は慈愛に満ちていた。あとで思ったのだが、階下にはおそらく家主の村長さんが居合せたのだろう。私は以前から先生を尊敬していたが、それ以来、ますます先生が好きになった。先生の授業は質素で素朴なものであったが、勉強することの喜びと楽しさを教え、充実を感じさせるものであった。今様にいえば、そこには手作りの教育があった。それはしばしば私たちの寂しさを忘れさせたものである。
さて、はなしを現在に戻すことにする。高校入試を終わり、各高校とも新入生を加えて昭和五十五年度のスタートである。ところで今年の入試の国語の問題に「忍耐」をテーマとして作文が出題された。聞くところによると、ある高校では、試験中に手をあげて、「先生、これ、なんと読むんですか」と質問した受験生がいたそうである。私はこれを耳にしたとき思わず吹き出してしまった。しかし、まさしく時代を感じ、その生徒があわれにさえ思えたのである。そこで私は本校の国語の先生がたに、どんな内容のものが多かったのか尋ねてみた。その返答は「勉強」であった。そうです、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで勉強したというのである。むろん、作文として他の条件を具えていれば満点が与えられたであろう。しかしなにかおかしい、なにかが転換されているように思えるのである。中学三年生が限られた時間の中でとっさに脳裏をかすめたものを内容にして作文をまとめるのだから仕方がないともいえる。しかし勉強とは忍耐に忍耐を重ねてするものであろうか、私は高校時代に英文解釈で学んだ短文を思い出した。「したくないことを、いやいやすることほどからだにわるいものはない」むろんこの短文を学生にじかに伝えるのは危険であるかも知れない。「勉強したくない教科はしない方がよい、すえは勉強などやりたくないものはやらない方が健康的だ」などと誤解されそうだからである。私はこの短文は勉強とは、したいからするものであり、いやいやするものではないということを訴えているものだと思う。「勉強なんて、したくてする人はいない、しなければならないものだから遊ぶのを我慢して勉強しなければ…」などと人間が本来もち合わせるところの知識欲をみずから遮蔽(しゃへい)してしまうような言い方は慎まねばならないと思う。
耐え忍んだ生活の中にあって自分にとって勉強することに楽しさと光明を見いだしていた勉強そのものが忍耐に結びつく現代っ子に時代の差を感じるのである。
(福島県立磐城高等学校教諭)